中央線東小金井駅、地味だが「日本初」の誕生秘話 地元が費用を全額負担して開設した「請願駅」

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ところでこの記念碑には、国鉄から新駅開設の条件の1つとして、貨物駅の併設が出されていたと書かれている。そのとおり東小金井駅には翌年、貨物駅も作られた。

実はこちらも、日本初の出来事の舞台になった。国鉄が自動車輸送を本格的に行うことになった際に、試験走行の舞台になったのだ。

戦後、急速に成長した自動車産業だったが、当時は東名高速道路すらない頃であり、工場で製造した自動車を確実に輸送する手段として鉄道が選ばれた。

当初は自動車メーカーが所有する私有貨車が用いられたが、積載可能な車種が限定されるうえに、帰路が空車になってしまい非効率だったことから、国鉄が汎用の車運車を開発して運用することになった。

まず試作車のク9000形2両が生まれ、試験に供されたあと、ク5000形として量産されたのだが、試験運用の場として選ばれたのが、東小金井駅と名古屋市の東海道本線笠寺駅だった。

自動車が鉄道で運ばれた

後者は三菱重工業(現在の三菱自動車工業)、そして東小金井駅では、後に日産自動車に吸収合併されるプリンス自動車工業の車両が積まれた。現在も日産ブランドで販売が続けられる「スカイライン」も含まれていたと思われる。

プリンスの村山工場は武蔵村山市にあり、青梅線や八高線のほうが距離的に近いと思うのだが、自動車の積載ということで相応の敷地が必要とされることから、請願を受けていた東小金井駅が適任と判断したのかもしれない。

日産村山工場
上空から見た日産村山工場。左奥は横田基地(写真:日産自動車)
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