11月10日号の小欄をしめくくった漢の宣帝のことばは、ずいぶん思い切った意訳をしたので、とまどわれた向きもあったかもしれない。原文に即した読み下しはこうである。
「漢家は自ら制度あり。本(もともと)覇王道を以(もっ)てこれを雑す。奈何(いかん)ぞ純(もっぱ)ら徳教に任せ、周政を用ゐんや。」
「覇道」が法家、「王道」が儒家を指し、後者は後文ですぐ「徳教」といいかえている。それで法治と徳治としてみた。法といい徳といっても、元来が中国の諸子百家なのだから、現代の概念とぴったり同じでないのは、むしろ当然である。しかし同じ人間の作る集団・社会、古今東西を貫く原理・真理があるのではなかろうか。
指導する者される者
組織を作るにあたっては、どうしても指導する者と指導される者が必要である。学校では先生と生徒、企業では上司と部下、規模の大小こそあれ、上下の区別は避けられない。それは統属関係ではある。けれども組織全体でみれば、むしろ分業といったほうがよい。いかにその分業を円滑、能率的にすすめるかは、全体にとってきわめて重要であろう。
人間は心身とも、安逸に溺れやすい。放っておいたら、何もせず、怠惰に流れる。あるいは、何をするかわからない。放縦(ほうじゅう)・放逸(ほういつ)ということばもある。
一個の生命体・生物として生存するだけならまだしも、人間は社会的存在であって、人間関係のなかで生きている。全体的な秩序・治安を保てなくては、分業もはかがいかない。社会全体に関わる放縦を避けるべきだとすれば、一定の強制力・拘束力も必要で、そこに権力・法律、ひいては法治の存在理由がある。
とはいえ、法令の上意下達ばかり、規則と拘束、強要と屈従ばかりでは、消極受動に陥り、能率はあがらない。個々人の自発的・積極的な寄与・献身も重要である。その自発性を尊重し、なおかつ放縦に流されぬようにするのがモラル、道徳にほかならない。
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