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かつて中国史上の政体を「徳治」と表現したことがある。するとたちまち、「徳治」など実在、実現したことがない、との批判を頂戴した。ひととおり説明をしたにもかかわらず、文字どおり徳をもって治めるシステムだと思い込んでの異論らしい。なんと生マジメな、というか、裏面を見ない硬直な思考か、とあきれたものである。
くりかえすと、徳ある指導者が下々を教えさとし、立派な人々にする「教化」を根幹とし、立派な人なら法律・刑罰の強制力は要らない、というコンセプトの統治形態であった。法律は杓子(しゃくし)定規で柔軟性がなく、人々を苛細に束縛しかねない。そのため「徳治」の中の法は、徳による秩序維持が通用しない範囲にのみ、やむなく行使するサブシステム、あくまで二の次・三の次、補助的な位置づけになる。
主観的な「徳治」
以上が額面・建前の理念である。現実はどうか。真の有徳者・名君の善政も、確かにありうるだろう。しかし徳はどこまでも主観的なものにほかならない。関係者かぎりで「立派だ」と思いこめば、有徳になりうる。いかに善意といっても、しょせん見方次第、往々にして独善・偽善にほかならない。それが秩序・治安を維持する最終的なよりどころになってしまう。
だから必ず、統治の及ばない範囲が生じる。そこを放置して無秩序・治安悪化に任せるのでなければ、法律・権力に従わせ、背けば刑罰・弾圧を加えざるをえない。
かくて「徳治」のシステムは、独裁・専制を生みやすく、指導者・為政者の「善意」に従わないものには、恣意的な法律と刑罰の行使を辞さない恐怖政治にさえ転化する。「徳」をイデオロギーに置き換えれば、いわゆる「人治」にひとしい。かつてのソ連をはじめとする共産主義国家とみまがうシステムになろう。
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