「俺が中隊長のときに阪神・淡路大震災が起きた。現場に向かったが、2車線の道路に車が3列も4列も並んで、身動きが取れなくてどうにもならなかった。救えた命を救えなかった……」
沈痛な面持ちで、落涙しそうに語る陸上自衛官に、まだ20代で人の心情をおもんぱかる能力が完全に欠落していた私は無神経な返答をした。
「そんなもの、3列、4列で止まっている車を横倒しにすれば、1台が通れるスペースくらい作れたでしょう」
「そんなこと、できるわけがないだろう! 一般人の車を傷だらけにしてしまうじゃないか。誰が弁償するんだ」
怒ってそう言ってきた本人に、私はまた言い返した。
「指示したあなたが弁償すればいいじゃないですか。何十台もやるからには莫大な金額になるでしょうが、一生かけて弁償すればいいじゃないですか。一人でも命が救えたとすれば安いもんでしょう。車は直せるし、弁償もできますけど、命はそうはいきませんから」
規則に縛られる弊害
2016年12月3日号から本誌に連載してきた「非常時の組織論」は次回が最終回となる。
内容に関しては組織論を外れることもたびたびあったが、話の軸が、「非常時」から外れることはなかったつもりだ。なぜなら私は平時も非常時のように生きていて、それがゆえに社会性に乏しく、若干の人に多大なご迷惑をおかけしているからである。
非常時とはどのような状態なのか。自分の中では平時との違いを明確に決めている。
平時とは、存在する規則を順守していれば事足りる状態をいい、そうではなくなった状態が非常時だと思っている。
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