桶狭間の戦い「信長、5つの勝因」は何だったか 奇襲はウソ?「最新の日本史」を紹介

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私たちがよく知る桶狭間の戦いでのクライマックスシーンは俗説だった?(写真:たき / PIXTA)
桶狭間の戦いは、若き織田信長が、都(京都)への上洛をもくろんだ今川義元の大軍に、少数の兵力で勝利した合戦として物語などでは語られている。
しかし、近年の研究では、これまでよく語られてきた戦いの内容に疑問が提示され、その実像についても新たな見直しが行われている。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、信長の「桶狭間の戦いの勝因」を解説する。

謎が謎を呼ぶ?より深まる桶狭間の真相

『いっきに学び直す日本史』は「教養編」「実用編」合わせて20万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

永禄3(1560)年5月、京都への上洛を目指して駿府(静岡市)を出陣した今川義元は、当時すでに駿河・遠江・三河(伊豆を除く静岡県と愛知県東部)を領有する大大名でした。これを阻止しようと立ち上がった織田信長は、まだ尾張(愛知県西部)のうちの北部をやっと確保していた小大名。今川軍は大軍を率いて尾張国桶狭間(愛知県豊明市付近。田楽狭間とも)まで進軍します。

そこへ先発隊による緒戦での勝利が報じられ、気をよくした義元は、この細い窪地で行軍を停止し、酒宴を催し始めます。

しばらくすると雨が降り出し、やがて豪雨に変わると突然、背後の山から喚声がとどろきます。迂回路からひそかに布陣していた信長軍が、義元の本陣に向けて怒濤の奇襲をかけてきたのです。雨の中を右往左往する義元。そしてついに、信長の家臣・毛利新助の手で、義元はあっけなく討ち取られます──。

この、私たちがよく知る桶狭間の戦いでのクライマックスシーンは、江戸時代初期の作家、小瀬甫庵(おぜほあん・1564~1640)が書いた『信長記(しんちょうき)』に記されたストーリーで、長く一般に信じられてきました。

現代のドラマなどでもしばしば再現されてきたおなじみの展開ですが、近年の研究では、信長が行った作戦は、「迂回からの奇襲」ではなく「正面からの突撃」だったとされ、義元の酒宴も俗説の可能性が高いといわれています。

ただ、それでは兵力に勝る優勢な今川軍に、なぜ寡兵の信長が勝利できたのか説明がつきません。

今回は、現在、解明が進んでいる「桶狭間の戦いの真の姿」と「信長、本当の勝因」について解説します。

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山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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