なにせ戦後間もない頃の著作である。時代が違う。言葉づかいも違う。いろいろと書き加え、書き直し、あるいは言葉の説明をしなければならない。感想文とでもいうのなら、多少手抜きをしてパラパラと読み拾っただけでもなんとか形になる。
しかし、改訂版である。一字一句、丁寧に私自身で確認しながら読んでいかなければならない。一生懸命、努めて早く読んでも、やはり一週間はかかった。
ようやく読み終え、手を入れ終えた私は、その朝、松下に『PHPのことば』の検討を終えたことを告げた。
「そうか、聞かせてもらおうか」。その日は午前中、勉強会を中断して『PHPのことば』の改定版の案について報告をした。「何ページの何行目は、前のページにこう書いてあるからこうです」と、半日かかって説明した。「うん、うん、そうか、そうか」と丁寧に聞いていた松下は、私の報告が終ると、「これでいい、これでいい」と言った。
私は、多忙な中で無理をして検討したことが報われたと思いつつ、それでは改訂版の手配をしましょうかと松下の指示を仰ぐと、その返事は意外なものであった。
「そやなあ、まあ、しばらくおいておこ」
なんということか。忙しいのを承知のうえで急がせて読ませておきながら、そのままにしておこうとはどういうことか。私は腹の立つ思いであった。
松下幸之助の「配慮」
しかし、それから間もなくして私は、松下との勉強会における会話が、それまでよりはるかにスムーズに進んでいることに気がついた。それまでは「はい」「なるほど」「へぇー」「そうですか」という4つの言葉で相槌を打つしか能のなかった私が、松下幸之助と会話し、議論するようになったのである。そうか、そうだったのか、と思った。
おそらく松下は、私相手に人間観の検討を続けながら、「こいつは頼りないな、自分の考えをあまりよく理解していないな」と思い、私の応じ方に不足を感じていたに違いない。
『PHPのことば』の改定版を出したいから読むように、と命じれば、言われたほうは一字一句読まなければならない。そうすることによって勉強させてやろう、という松下の配慮に遅まきながら気がついた私は、腹を立てた己の愚かさに恥じ入るとともに、松下への感謝の気持ちが胸いっぱいに広がってきた。
松下は直接「きみ、もっと勉強せいや」と言ってもよかった。怒るほうが簡単である。あるいは「きみでは役に立たんから、別の人間と代われ」と言うこともできた。PHP研究所の研究本部には優れた研究員が多くいた。だから探そうと思えば代わりの人間は他にいくらでもいる。しかし松下は決してそのように言わなかった。「もっと勉強しろ」と言えば、たしかに部下はそれなりに勉強するだろう。しかし自分から進んで勉強することに比べたら、成果が数段落ちることは目に見えている。下手をすれば面従腹背となるかもしれない。
松下が上からものを言って人を動かそうとしなかったのは、人間はすべて誰もが無限の価値を持った尊い存在なんだという人間観に基づいている。その人間の無限価値を引っ張り出すためには、今ここで自分が我慢する、自分がもうひとつ努力する、それによってきっと自分よりももっと優れた人材に育ってくれるだろうという気持ちが、松下の振る舞いの根本にあったのだ。部下を育てたいという心が先行すればこそ、本質的な解決につながる知恵が出てくるのである。
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