高市早苗首相が2025年11月7日の衆議院予算委員会で台湾有事をめぐる存立危機事態に関する答弁を行ってから、まもなく1年となる。
本稿は中国による日本に対する様々な威圧のひとつとしての世論戦の側面から、高市氏の答弁後に起きた日中関係を振り返り、現状と展望、そして日本にとっての課題を分析することを目的としている。世論戦とは、ある事象や人物、言葉に対する定義と評価の主導権(ディスコースパワー、中国語では「話語権」)を奪取するための双方のプロパガンダ情報発信の応酬を指す。
薛剣・駐大阪中国総領事による「汚い首を切り落とす」発言もあって、当事国である日本国内では広く知られた一連の中国による世論戦に関する出来事は、実際には成功と言い難いものだった、というのが現時点での筆者の見解である。ターゲットとなる日本国民を恭順させるどころか反発と嫌悪を呼び起こし、国際社会を巻き込む「開かれたナラティブ」を提示できなかったのみならず、中国国内の大衆動員としても熱狂を生み出せず、大声を出した割には、自国民、他国民、第三国いずれの面でも実質的な成果を欠いたためである。
対日世論戦における国際社会の巻き込みという意味では、23年の福島第一原子力発電所のALPS処理水放出問題で中国は一定の成果を収めている。全人類の共有財産である海洋環境の危機を争点に設定したことで、韓国や太平洋諸国などの第三者を巻き込む多国間の対日ネガティブ世論の形成に成功したのだ。また国民の動員という面では、12年の尖閣諸島国有化問題が成功例として挙げられるだろう。本稿ではそれらとの比較を通じて、何が成否を分けたのかを検証していきたい。
対応レベル決まった後の無秩序な各種対応
まず事態を振り返っておこう。「存立危機」発言は7日の衆議院予算委員会における質疑の中で午後2時過ぎに行われ、夕方には日本の各メディアが報じていた。中国側の反応として口火を切ったのは薛剣駐大阪総領事で、記事を紹介する朝日新聞のポストを引用する形で「勝手に突っ込んできたその汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない」と8日の深夜23時40分にXへ投稿した(のちに削除)。
日本政府は10日に木原稔官房長官が薛氏の投稿に抗議した。逆に中国側は同日に外交部報道官が定例会見において高市氏の答弁は武力介入の暗示だと批判、その後も官製メディアである『環球時報』や中国中央テレビ(CCTV)などで批判の報道が続く。その後13日に中国外交部が金杉憲治駐中国大使を呼び出し、続く14日には人民日報がもっとも権威のあるコラム「鐘声」で一線を越えた挑発であると非難したことで、中国側の対応レベルが定まった。
日本では薛総領事の過激な発言がよく記憶されているものと思うが、「本社」である外交部がこの件に触れたのは週明け10日になってからであることからも、「汚い首」投稿は常日頃自身が熱心にXに投稿しているといわれる薛氏の個人的な行動であると考えるのが正しいはずだ。続く旅客便の大幅削減や12月に起こった海軍機によるレーダー照射事件なども組織的で秩序だった行動などではなく、トップが激怒したと聞いた官僚たちそれぞれが自ら持てる手段を使って忖度した、という紀実作家・安田峰俊氏の分析に筆者は全面的に賛成する。


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