與那覇:どうすれば信頼を取り戻せるか。プロとアマチュアの違いは「間違えないか」ではない。どちらも間違えうるのだが、失敗の後にどこで間違えたかを自ら検証し、今後は改めるから信じてくださいと言う。それができるのかが、本来の意味で「専門家か否か」を測る基準だったはずです。僕自身も含めて、社会に向けて発信する人の誰もが、そうした王道に立ち戻るときだと思います。
SNSがユーザー全員を「官僚」にした
舟津:本の中では、間違いを間違いと言えない状況が近年強まっている、という話がありましたね。
與那覇:すべてをSNSのせいにはしませんが、その影響は拭えません。SNSができる前なら、たとえば政治家の評価を文字にして残すのは、特殊な仕事の人だけでした。普通の人はテレビを見ながら、内心でなんとなく「いいね」「ヤダな」と思うくらいだから、途中で評価を変えても誰にも気づかれなかった。
ところが今は政治のニュースについて、誰もがすぐSNSで思ったことを書いちゃう。自分の内面を毎日、他の人の前で可視化しているから、意見を変えたら「お前、前は違ったよな?」と叩かれそうで怖くなる。だから間違えたとわかっても引っ込みがつかず、同じ主張を言い張り続けるしかない人が増えている気がします。
舟津:ご著書の中で書かれていた「無謬神話」って、僕の理解では官僚制組織に関して使われるイメージがあります。規則に従えば間違いは起きないはずだ、と。そういう組織で出世していくには、業績を上げるよりミスしないことの方が大事になる。いわゆる減点法的評価です。
実はこの感覚は若い人にも共通していて、授業で発言して間違えるより、黙っている方が賢いと考える。しかも減点をすごく大きく捉えがちです。間違いを針小棒大に言い立てる人がどこかにいるんじゃないかという不安があるから、突っ張ってしまう。認めた瞬間に自分がキャンセルされる、という怖さが背景にあるのかなと。
與那覇:本書では「検察無謬神話」の例を出しましたね。公判で冤罪が証明されても、「間違えて起訴したと認めるわけにはいかない」として、上訴し続ける。そうした日本の官僚制の病理に、いちばん近いのは旧ソ連の計画経済だなとさえ、僕は思うようになりました。「正しい思想」に基づく計画である以上、それ自体に間違いなどあるはずはなく、うまくいかないなら現場の誰かが悪い、とする発想です。
日本でそうした神話が大きく傷ついたのは、平成の頭にバブルが弾けたときでした。大蔵省が立てるプランは「常に正しいはずじゃなかったのか」と。当時のバッシングの対象は霞が関でしたが、SNS以降はむしろ、誰もが「お前間違えたよなぁ?」と指摘されるのを恐れている。悪い意味でだけ、みんなが官僚のようなマインドになっていると。
舟津:ああ、そういう感覚はあるかもしれませんね。しかもその官僚制には、上から監視する偉い人はいない。お互いが見張り合っていて、小さなミスでも何年も言い続ける。だから専門家に限らず誰もが、間違えたと言いにくくなっているとは感じます。


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