天正13年(1585)10月、関白となっていた豊臣秀吉は、薩摩国の島津義久に対し、豊後国の大友氏との戦争をやめるよう書状を出します。
その書状の中には、敵・味方とも双方が争いを止めることは「叡慮」(天皇のお考え)との文言が含まれていました。秀吉は「叡慮」を持ち出して、大名同士の抗争を停止させようとしたのです。そしてその命令に従わないのであれば「成敗」するとしたのです。
戦国時代の九州は「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」とも評されますが、秀吉が権勢を持つ頃になると、島津氏は大友氏や龍造寺氏を破り、九州を席巻する勢いでした。前述の私戦停止令は大友氏にも出されており、同氏はこれに従うことにします。戦いを続ければ島津氏に併呑されてしまうことが明らかだったからです。天正14年(1586)4月、豊後の大友宗麟は大坂に赴き、秀吉に助けを乞います。
秀吉の命令に不満を抱いた島津氏
一方、島津氏としては、秀吉の停戦命令は順調に進んでいた九州攻略をさえぎるものとの認識がありました。
島津氏の重臣・上井覚兼は、日記の中で、秀吉のことを「羽柴(秀吉)のことは、まことにまことに由来無き仁(大した出自ではない人物)と世評がある」と記しています(『上井覚兼日記』天正14年正月23日条)。同時に「当家」(島津家)は源頼朝以来続く「御家」、つまり名門としているのです。


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