天正12年(1584)、羽柴秀吉は織田信雄(信長次男)・徳川家康との小牧・長久手の戦いを、自身に有利な形で終結させました。
信雄と「父子の約束」を交わした秀吉は信雄よりも上位に立ち「天下人」として君臨することになります。新たな武家政権「羽柴政権」が誕生したのです。
とは言っても、秀吉(父)と信雄(子)の主従関係を明確にするには、信雄が大坂城にいる秀吉の元まで赴き、出仕する必要がありました。
伊勢長島城の信雄を出仕させるため尽力した人物の1人が、秀吉の弟・羽柴秀長でした。
天正13年(1585)1月、秀吉の名代(代理人)として秀長は信雄の居城・長島城を訪問しています。秀長は信雄の元を訪れて、秀吉に出仕することを求めたと考えられます。
秀長や富田一白(秀吉側近)などが交渉したこともあって、信雄はついに大坂まで赴きます。信雄は秀吉に従属したのでした。その後、秀長は信雄の「指南」(政治的後見役)を務めることになります。
家康は秀吉に従う姿勢を見せず
一方、徳川家康は小牧・長久手の戦い後、次男の義伊(のちの結城秀康)を養子(実質的な人質)として差し出していましたが、信雄のように秀吉に従う姿勢は見せていませんでした。
秀吉は家康に対し、重臣から人質を出すことを要求しますが、家康はそれを拒否(10月28日)。対立は深まることになります。
そうした中で発生したのが、徳川家において秀吉への取次(交渉)を担っていた家老・石川康輝(数正)が出奔し、秀吉を頼るという事件でした(11月13日)。


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