臣従を拒否する家康に業を煮やした秀吉は、来春に家康を討伐する態度を示します。家康は秀吉軍の襲来に備えて、相模国の北条氏との連携を深めていましたが、戦端が開かれたら危機的状況に追い込まれるのは目に見えていました。
緊迫した状況の中、天正13年11月29日に発生したのが「天正地震」(マグニチュード8の地震か)であり、中部から畿内にかけて大きな被害をもたらします。
大坂の秀長邸は倒壊し、秀吉方の軍事的拠点の美濃国(現在の岐阜県)大垣城も倒壊しました。家康を討伐するための軍事的拠点が倒壊したこと、地震の復興の問題もあり、秀吉は予定していた家康討伐を中止します。
織田信雄が家康と対面し働きかける
出陣して家康を討つのではなく、平和的手法をもって家康を従属させることにしたのです。家康は秀吉に臣従するか否かの選択を迫られたわけですが、そうした中で大きな役割を果たしたのが織田信雄でした。
天正14年(1586)1月下旬、秀吉の意向を受けて、信雄は三河国岡崎城を訪れ、家康と対面。信雄は家康に秀吉に従うことを働きかけたのです。
家康は信雄の説得に応じ、秀吉に臣従することを決断します。家康が秀吉に臣従することを決めたのは、秀吉と全面対決したら、最悪の場合、徳川家は滅亡するという冷静な判断が働いたからと思われます。
しかしそれだけではなく、臣従のための条件が秀吉に認められたからとも言われています。
その条件の1つが、秀吉の妹・朝日(南明院殿)を妻に迎えることでした。この縁組は秀吉が家康を懐柔するために強引に進めたようにみなされてきましたが、近年では家康から持ちかけたとする説も登場しています。
秀吉がその書状(天正14年5月24日付)の中で「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」(家康が種々、縁組のことを熱心に希望した)と書いているからです。
家康は秀吉の妹・朝日を正妻に迎えることにより、臣従後の自身の立場を強化しようとしたのでした。家康の要求を受け入れた秀吉は妹を家康に嫁がせることになります。
5月中旬、家康と朝日の婚儀が行われました。こうして家康は秀吉の義弟となったのです。


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