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ライフ #戦国最強の兄弟の軌跡

秀吉に「たいした出自の人物ではない」と言い放った島津氏が、"秀吉の大軍"に追い詰められてしまった背景

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豊臣兄弟! 秀吉 大河
桜島(写真: w_stock / PIXTA)
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覚兼はそうした考えを持っていたので「羽柴」に対して関白扱いの返書を出すのは「笑止」とも書いています。そればかりか、覚兼は秀吉を関白に任じた天皇をも「綸言(天皇のお言葉)の軽々」と評しているのです。

覚兼のような強硬論がある一方で、秀吉は朝廷から関白に任命されているので、これを軽んじることはできないとの意見も島津氏にはありました。

そこで秀吉の書状の副状を発給した名門の細川幽斎に返書します。それは島津氏は織田信長の仲介による大友氏との和睦を遵守してきたが、大友氏がそれに反して日向や肥後国境に侵攻してきたので、島津氏は戦わざるをえないとの内容でした。

秀吉側に対し「防戦」であると弁明する一方で、島津氏は豊後国への進軍を決定しています。島津氏は秀吉の停戦令に従わない決断をしたのです。

秀吉が島津氏討伐を決める

秀吉は「九州国分け案」(島津氏が切り取った肥後半国・豊前半国・筑後国を大友氏へ返還)を発していましたが、これも島津氏がおいそれと受諾できるものではありません。これを受けて秀吉は島津氏を討伐することを公表しました(天正14年(1586)7月)。

そして天正15年(1587)1月には、豊臣軍の出陣計画を公表します。1月25日には宇喜多秀家が1万5000の軍勢で出陣、2月5日には細川忠興・中川秀政が3000の軍勢で出陣といったことが発表されたわけですが、その中には秀吉の弟・秀長の名もありました。秀長は2月10日に1万5500の軍勢で出陣することが定められたのです。

ちなみにそれまでに秀長は島津氏から秀吉への取り成しを依頼されていました。このことから秀長は島津氏への取次を担っていたことがうかがえます。

秀長の出陣が決定してからも、島津氏は秀長に書状(天正15年(1587)1月19日)を送り、敵対するつもりはないことや秀吉への取り成しを依頼しています。この島津氏の書状に秀長がどのように反応したかは不明です。

2月10日に大和国の郡山城を出陣した秀長は3月1日に長門国の下関に到着し、同月6日にはついに豊前国小倉(北九州市)に到着しています。

その途上、秀長は備後国鞆(福山市)に赴き、足利義昭(室町幕府15代将軍)と会見しています。秀長は足利義昭に働きかけて、島津氏に和睦を促していたのです。義昭は島津義久に御内書(将軍が発給する書状形式の命令書)を出し、秀吉と和睦することを勧めていました。

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