この部分は通常豆腐のような見た目と色をしていますが、室温に放置したバターのようにとろけて黄色くなっています。細胞が壊死しているのです。
古い梗塞は壊死した個所が穴のように組織が欠損した状態になりますが、今回は細胞がとろけて黄色く変色していることから梗塞を起こして間もないとわかりました。しかも梗塞が直径2cmと広範囲です。
解剖後のアルコール検査と薬毒物検査、警察の調査の結果から、眠くなる薬や酒を飲んだ形跡がないこと、走り慣れた通勤路で見通しのよい場所にもかかわらずノーブレーキで突っ込んだこと、事故の発生が居眠りを考えにくい朝の時間帯だったこともわかりました。
この状況で交通事故を起こすのは違和感があります。脳梗塞によって運転不能となり、その結果事故を起こしたと考えるのが自然です。
梗塞の新しさと部位からも、疾病先行の交通事故であることが推察されました。左側の大脳は右側の運動機能を司っています。渡辺さんは左側の大脳に梗塞が起こったため右足がきかなくなり、クルマを制御できなくなったと思われます。
さまざまな所見を総合的に勘案して、渡辺さんの死因は「脳梗塞に基づく胸腹部打撃による多臓器損傷」となりました。
ちなみに疾病先行の交通事故で亡くなった場合、直接死因は「交通事故」ですが、それを引き起こした大元の原因は「病死」となります。そのため、渡辺さんが加入していた傷害保険では補償の対象外となり、保険金は支払われませんでした。
脳梗塞は「痛みがない」
では、渡辺さんはなぜ脳梗塞で亡くなったのでしょうか。
脳梗塞のいちばんの問題は「痛みがない」ことです。同じ脳卒中でも、くも膜下出血や脳出血が発症したときの痛みは「後頭部をバットで殴られたような」と表現されますが、脳梗塞にはそうした痛みはありません。
また、単身者は初期症状に気づいてくれる人が身近にいないため、症状を見逃したり、違和感を感じても放置したりする場合があります。渡辺さんは奥さんと二人暮らしでしたが、この日は奥さんが不在だったことが警察の調査から判明しています。


※ログイン後、コメント入力が可能です。