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9世紀には畿内の氏は3分の1が渡来系に…飛鳥時代の日本が中国由来の「仏教・儒教・道教」にすっかり染め上げられるまで

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5世紀末以降、続々と渡ってきた渡来人は飛鳥文化に大きな影響をもたらした(写真:写快人/PIXTA)
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造寺・造仏などを通して建築技術や仏教美術が伝わり、仏教学や医学などといった、それまでなかった学問も伝わった。また、大陸の奏楽なども取り入れられた。いわば仏教文化体系自体が日本に浸透していったのだ。

こういった渡来人の技術力や知識を背景に実権を握ったのが蘇我氏だ。蘇我氏は仏教啓蒙を加速させ、信仰と力のシンボルとして、推古天皇4年(596)に飛鳥寺を建立する。百済の技術と援助によって建てられたこの寺院は、釈迦如来像の圧倒的な存在感とあいまって、当時の日本人をおおいに驚かせた。

仏教への信仰の厚かった推古天皇や聖徳太子は仏教を国づくりの土台として積極的に取り入れることになる。こうして仏教は、まず朝廷や豪族に受け入れられた。ただし、民衆には依然、土着の精霊を崇拝する者も多かったようだ。

また、儒教も日本の儀礼整備に大きな影響を与えている。推古朝は仏教に加え、儒教にもとづく新しい政治秩序を目指し、小墾田宮(おはりだのみや)に儀礼空間をつくった。また、推古天皇11年(603)、冠位十二階を制定、大徳・小徳といった階位を示す言葉には、儒教的な考えが表されている。

聖徳太子が定めた憲法十七条も基本は儒教の思想をベースにしたもの。儒教的価値観が重んじるのは君、臣、民の秩序であり、豪族たちに正しい政治を行うように定め、豪族たちのパラダイムシフトを促した。

孝徳天皇が難波宮で思想改革を推し進める

大化元年(645)の乙巳の変により、蘇我本宗家は滅亡したが孝徳天皇はこれからは天皇が仏教を興隆すると宣言。仏教の啓蒙に励んだ。白雉3年(652)、難波宮に移った際も、宮で仏教儀礼を行い、遷宮仏事には2100人もの僧や尼を呼び集めている。難波宮は国家法会(ほうえ)を行う仏教普及の拠点としても機能していたのだ。

孝徳天皇は、儒教的な要素も大胆に取り入れている。新年ごとに君臣関係を確認する朝賀(ちょうが)という儀礼を定例化しており、難波宮はこうした国家的な儀礼を盛大に執り行うための空間としてつくられたのだ。

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