秦氏は新羅からの移住氏族といわれ、京都市右京区太秦辺りを拠点に養蚕や機織り、酒造、金工の技術を発揮。
西文氏は、5世紀前後、応神天皇に百済から招かれた王仁(わに)を祖とする一族で、大阪の南東部にあたる河内に定着する。日本に文字をもたらし、『論語』『千字文』を伝えた。文筆能力に優れたことから朝廷の文書事務に携わり、外交でも活躍したという。
そして、大和国高市郡檜隈村(現在の明日香村檜前・ひのくま)、つまり飛鳥を拠点に先進技術や知識をもって朝廷に仕えたのが東漢氏だ。彼らは錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の技術者をまとめ、製鉄、武器生産に取り組んだ。その氏祖となった人物が阿知使主(あちのおみ)だ。
応神天皇の頃に、子の都加使主(つかのおみ)とともに大勢の人夫を率いて、加耶から渡来したと考えられている。阿知使主を中心に、東漢氏という大きな渡来系集団へと発展していった。
蘇我氏から重用され、坂上田村麻呂も輩出した東漢氏一族
阿知使主のなごりが今も飛鳥に残されている。近鉄吉野線の飛鳥駅から南に10分ほどの場所にたたずむ於美阿志(おみあし)神社だ。この神社で祀られているのが阿知使主なのだ。境内には7世紀後半に建立された東漢氏の氏寺、檜隈寺の遺構も残されている。
その後も奈良時代の末まで東漢氏一族は飛鳥の地で結束力を維持していたようだ。その証しとして檜隈寺跡には平安時代頃につくられた石塔が残っている。
東漢氏の拠点となった飛鳥は蘇我氏の基盤でもあり、両者の関わりはしだいに深くなる。蘇我氏は東漢氏の技術を独占することで政治的に圧倒的な影響力をもつことができたのだ。
また、『元興寺縁起』の「塔露盤銘」には、飛鳥寺創建の際に東漢氏が建設を担ったことが記録されている。百済から造営の指導のためのスペシャリストが派遣され、飛鳥寺の伽藍は6世紀末に大方が完成した。このときに実際に造営に従事したのは、東漢氏が統轄した造寺集団だった。


※ログイン後、コメント入力が可能です。