当時子どもの遊びといえば、鬼ごっこと缶蹴り。足が速く、「缶蹴りは任せて!」と張り切って前に出るタイプだった。小学校ではリレーの選手に選ばれ、徒競走で勝ったりと、運動会を楽しみにしていた。
兄二人も足が速く、中高は陸上部で活躍していた。松尾さんも当然のように中高では陸上部に入り、短距離走に打ち込んだ。しかし、高校を卒業すると、いったん陸上から離れることになる。
母子家庭で育った松尾さんは、大学では、自らアルバイトをして学費を捻出しなければならなかったからだ。
兄が浪人して大学に入ったときには許容した親戚も、女子である松尾さんに対しては、将来の希望を聞くことすらなかった。
「お前は大学に行かずに、高校を卒業したら、仕事をして家族を助けなさい」
親戚から投げられた理不尽な言葉に、怒りが込み上げてきた。
「その頃から、自分がひとりの人間として生きていくための努力をするとか、女性であっても自分で決めて生きていきたい、と考えるようになりました」
大学では、女子学生が少なかった経済学部を専攻。当時、女性が安定して生活できるキャリアと言われていたのは公務員と教員だった。親を安心させたい気持ちもあり、憧れの街だった横浜の市役所に就職した。
3人の子が毎晩吐く、川崎から葉山へ
時は流れて、1987年。
35歳になった松尾さんは、20代の頃に働きながら通った鍼灸師の夜間専門学校で知り合った夫とともに、3人の子どもを育てながら、仕事に奮闘する日々を送っていた。
家族が住んでいたのは、川崎の工業地帯のすぐ近く。
3人の子どもたちは、喘息やアトピーなどの深刻なアレルギー症状を抱えていた。
「毎晩、子どもたちが咳き込んでシーツに吐くので、それを洗っているうちに夜が明けるという生活がずっと続いていて。自分自身も疲れ切っていたし、次男が入院もしたし、心身の限界を感じていました」
それでも、仕事を辞めるという選択はなかった。子どもたちのアレルギー症状を和らげるために松尾さんが選んだ道は、環境を変えることだった。
たまたま新聞で、海の水がアトピーや、アレルギーに良いという記事を見かけたとき、「ああ、これだ!」と直感が働いた。ダイビングで訪れたことがあった、葉山町が頭に浮かんだ。思い立つとすぐに家族で話し合い、移住を決めた。


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