お笑いは無理…だから「きちんとしゃべれる人」に
職を失い、明日食べるご飯を心配しなくてはならない状況に立たされた。生活のことを考えるなら、地元に戻る選択肢もあっただろう。しかし、当時は大阪に拠点を移してから2年半しか経っておらず、「まだ大阪にいたい」気持ちが強かった。
大阪で生活を続けるためにはどうしたらいいか。そこで思いついたのが「しゃべる仕事」だった。
「学生の頃は先生に『うるさい』って怒られていたんですけど、やっぱり私、人としゃべることが好きだなって気づいて。そこで、しゃべる仕事をやろうと決意しました」
イベント会社にいた頃、リポーターやイベントMC、お笑い芸人など「しゃべる仕事」をしている人と接する機会があったのも大きかった。倒産を機に自分のしゃべりを活かせる仕事を探そうと決意し、久保さんが向かった先はアナウンサー学校だった。
そのアナウンサー学校では、リポーターやイベントMCなど「しゃべる仕事」のプロを数多く輩出していた。卒業後はグループ企業の事務所への所属が約束されており、仕事を紹介してもらえる可能性もあったという。
「ここならしゃべる仕事ができるかもしれない」。そう考えて入学したものの、はじめは迷いもあったそうだ。
「しゃべる仕事がしたいけど、最初はなんの仕事に就きたいかも定まっていなくて。アナウンサー学校で2、3回授業を受けた後にふと、お笑いはどうかなと思って、大手のお笑い養成所に何度か見学に行ったことがあるんですよ。
教室とかネタ合わせを見させてもらったんですけど、皆さん関西弁で、生徒さんなのに面白くて。私は関西弁はしゃべれないし、お笑いは難しいかなと、その時思いましたね」
お笑いの厳しさを知り、「だったら、きちんとしゃべれる人になればいい」という覚悟が生まれた。そこから半年間、アルバイトで生計を立てながらアナウンサー学校で技術を磨く。卒業後は事務所から仕事を紹介してもらい、ラジオ番組のパーソナリティを務めた。


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