一方、『川角太閤記』(江戸時代初期に成立した秀吉の軍功を中心とした一代記・軍記)では史実通り、信孝は内海に移され、そこで切腹を仰せ付けられたとされています。
そこには信孝の辞世の句が載せられており、それは「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」というものでした。
信孝が自刃した内海の野間は、平安時代後期に源義朝(源頼朝の父)が家臣の長田忠致の裏切りによって殺された場所です。その後、忠致が頼朝によって殺されたように「羽柴筑前(秀吉)にもいずれ報いが訪れるであろう」というのが、この辞世の句の意味です。
秀吉への深い恨みが感じられる句ですが、あくまで江戸時代初期の軍記に掲載されているものである点には留意する必要があるでしょう。
また、信雄・秀吉に抗していた北伊勢の滝川一益も6月には降伏し、織田家中で秀吉に敵対する勢力は潰えました。これは織田家中において秀吉の主導権が確立されたことを意味します。
信長亡き後の清須会議(1582年6月)では、三法師(信長の孫。信忠の子)を当主とし、それを柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興の4宿老の合議で支える体制が組まれましたが、1年も経たぬうちにその体制が崩れたことになります。
丹羽長秀や池田恒興もすでに秀吉に服していたため、織田政権の運営は、当主の織田信雄を宿老の秀吉が補佐する形で進められることになりました。
勝家の滅亡前後で、秀吉の態度が一変
しかし、柴田勝家の滅亡前後で、秀吉の信雄に対する態度は一変します。
勝家滅亡前は自らに敵対する勢力を「信雄への謀叛」としていたのに対し、勝家が滅亡すると信雄の存在には触れなくなります。
そればかりか、諸国の大名が「秀吉の意向に従うようになれば、日本国の統治は源頼朝以来のことになるだけでなく、それ以上の偉業になろう」と、自分(秀吉)を全面的に打ち出しているのです。
まるで主君の信雄など、すでに眼中にないかのようでした。秀吉にとって信雄は、自らに都合のよい「御輿」にすぎなかったということでしょう。


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