秀吉は天正11年(1583)5月、近江坂本城にて織田家諸将への領国配分を行います。そして摂津国の大坂を本拠と定め、そこに大坂城を築城することにしました。
さらに同年6月2日には信長の1周忌法要が行われますが、これは信雄ではなく秀吉自らが執り行ったものでした。この行動もまた、信長の後継者は自分(秀吉)であることを強くアピールするものだったといえます。信雄の心中は穏やかではなかったはずです。
面白くない当主の信雄
信雄は賤ヶ岳の戦い後、伊勢長島城を居城としていました。また、三法師も安土城から坂本城に移されることになります。主がいなくなった安土城は、のちに秀吉によって廃城とされました。今後は安土城ではなく、秀吉の大坂城こそが天下支配の政庁となることを示そうとしたのです。
しかしそうなると、先にも記した通り織田家の当主・信雄としては面白くありません。信雄と秀吉の対立は必然であり、こうして再び新たな騒乱が引き起こされるのでした。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


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