だが、わずか1年足らずでふたたび夫を失うこととなった。そして冒頭で書いた通り、茶々、初、江という3人の娘をこの乱世に残し、夫とともに自害の道を選ぶ。
波乱に次ぐ波乱で、市の心が休まるときはなかっただろう。しかし、戦国の世に人生を翻弄された女性は、市だけではなかった。
織田家と武田家を結ぶはずが婚姻が破綻
武田信玄の4女・松姫は永禄10(1567)年、織田・武田同盟の証として、信長の嫡男・信忠(当時11歳)と婚約した。松姫はまだ7歳だった。
だが元亀3(1572)年、信玄が徳川方への上洛戦(西上作戦)に踏み切ったことで、婚約は破談に。2人は一度も対面することのないまま、皮肉にも「許婚の敵」同士となってしまった。
天正10(1582)年3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐が始まると、武田家はまたたく間に追い詰められる。
伝承では、当時の松姫は同母兄にあたる仁科盛信が城主を務める高遠城に身を寄せていたが、織田軍の猛攻が迫るなか、盛信の勧めで城を脱出。同行したのは、勝頼の娘や小山田信茂の養女ら、行き場を失った武田家ゆかりの女性や子供たちだったという。雪深い山道を縫うように、頼るあてのない一行が目指したのは、遠く離れた北条領・八王子だった。
一方、当時の記録である『信長公記』は、少し違う光景を伝えている。新府城を捨てて逃げる勝頼の一行に付き従った200人あまりの女性たちの中に「信玄末子の娘」という一文がある。名は記されていないが、信玄の末娘といえば松姫を指すとみる向きが多い。
だとすれば、遠城から幼い姫たちを連れて八王子へ向かったとされる伝承とは異なり、松姫は一時、勝頼本隊とともに新府から逃れた可能性もあることになる。
ただ、落ち延びる一団のうちわずか20騎ほどしか乗れる馬がなかったため、大半の女性が着の身着のまま徒歩で逃げまどった、と『信長公記』には記されている。いずれにせよ、その混乱と悲惨さは想像に難くない。
道中、武田家は天目山で滅亡し、松姫は父祖の地を失う。それでも一行は八王子へたどり着き、草庵に身を寄せた。


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