伊東:やはりそこですよね。権限移譲は重要なポイントだと思います。実は先日、「偉人・敗北からの教訓」の特番の中で「豊臣政権を長続きさせるにはどうすればよかったか」と質問されたんですよ。難しい問いですが、私は「結城秀康に継がせたらどうか」と言いました。
真山:なるほど、その選択肢がありますか。結城秀康は家康の子ですが、小牧・長久手の戦い後に秀吉の養子として迎えられました。その後、結城家を継いだわけですが……。
伊東:無理はありますけどね。秀次が亡くなったあとでは、代わりとなるのは秀康以外ないのではないかと思ったのです。いずれ秀頼に継がせたとしても、秀次は中継ぎとしてちょうどいい年齢でした。秀吉と秀次の年齢差は31歳、秀次と秀頼の年齢差は25歳です。秀次と秀康は6歳違いなので、秀康は秀次の代わりが果たせます。
秀次事件の真相
真山:秀次事件の真相はどうだったのでしょうか。秀次が年齢的にもちょうどいい後継者だったのに、秀頼が生まれたことで邪魔になり、自害させられたと考えられていますね。
伊東:それが定説ですよね。ただ、歴史学者の矢部健太郎先生の研究では、当時、朝廷のルールで摂政の地位に就けるのは16歳以降と決められていたので、秀吉は秀頼が16歳になるまで秀次を高野山で飼い殺しにするつもりだったようなのです。
真山:ああ、なるほど。
伊東:高野山で生命を維持するための最低限の生活をさせ、秀頼が16歳になったら関白職を譲らせようとしていたと。それを秀次も知っていたから、あえて切腹して豊臣家の摂政・関白体制を潰したのです。それで天下継承プランが崩れ去ったので、秀吉は怒り狂ったわけです。
真山:そう考えるとやはり、秀長がもう少し長生きしていれば違ったのかもしれません。暴走してしまう秀吉を止めることができたのは秀長でした。
伊東:そうだと思います。ただ、たとえ秀長が生きていたとしても、豊臣政権は早晩瓦解していたはずです。というのも、政権の中枢に外様大名を据える体制自体が、そもそも無理筋だったからです。織田信長も徳川家康も、外様に政治の中枢を担わせることはしていません。譜代で固めています。
真山:家康は、秀吉の失敗から学んでいますよね。
伊東:そうなんです。外様大名は自分で領国を築いてきた人たちであり、秀吉から与えられたわけではありません。当然ながら自分自身の「利権」を持っている。豊臣家とは利害が一致しないことも多いわけです。秀長が長生きすることで、もう少し豊臣政権の寿命を延ばすことができたとしても、いずれ大きな問題が起こるはずでした。
真山:秀吉はなぜそのような体制にしたのでしょうか。


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