鈴木大拙の言葉を引用すると、「知的な累積の抑圧と横暴から逃れる。この愚かしい重荷を全部捨てる」(『禅』ちくま文庫、p.65)。
皮肉なことに、これまでの学問的な知を捨て去り、まっさらなところに戻ることこそが、哲学の行き着く先なのかもしれません。そうして戻ってみると、どうも客観的世界というのは現象あるいは仮象、幻想である感じがします。
自分が「死ぬ」ということには意味がない
「結局のところ、死に対して今どんな感情を持っているのか」と問われれば、死ぬというのは、あくまで「他人から見て死ぬ」ということなのです。他人が外側から見て「心臓が止まったね」と言うだけであって、自分が死ぬということには意味がないのです。
だって私にとっては「私」の主観が世界の全てなんですから。
人が燃やされて骨になったりしたのを見ても、それは「私」ではなく、他人から見た身体のあり方の変化を言っているだけです。死んでいく本人の心は全く関係ありません。
私たちは「死ぬ」ということの意味を知っているつもりでいますが、他人の死を観察したりして、「死ぬとはこういうことだろう」と間接的に推量しているにすぎないのです。
だから、たぶん私は死ぬと思うけれど、死んで、かつ死なない。いろいろな人が言っていることですが、我々は有限でかつ無限という、矛盾がそこに生じるわけです。
かつて私が「死ぬ限り、人生は絶望的だ」と恐れていたこと――それは結局、客観的な時間を前提にして、心を「物化」して(物みたいに考えて)語る大きな錯覚だったのです。


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