砂丘は開発により削られ、消滅した。風光明媚な湘南海岸には、銃声や爆発音の記憶が眠っている。
横須賀海軍砲術学校の演習場
この地域の軍用地化は早くも、300年前の1728年(享保13年)にさかのぼる。江戸幕府が「鉄砲場」と呼ばれる砲術演習場を建設したのだ。
鉄砲場は現在の茅ヶ崎市から藤沢市にかけて点在し、周辺の村々には役負担がかけられたほか、農漁業や居住へ悪影響を与えた。なお、茅ヶ崎市には、現在も「鉄砲道(てっぽうみち)」と呼ばれる道路がある。
明治時代に入ると、官有地は払い下げられ、付近の鵠沼(くげぬま)海岸や辻堂海岸の一部は別荘地となっていく。一方で、海軍は砲術試験場として辻堂海岸の土地を借り、次第に買収していった。やがて、砲術の指揮官や技術者を養成し、銃砲等の開発研究も行う海軍砲術学校所管の辻堂演習場となった。
砲術学校の所在地だった軍港都市・横須賀は、1884年に鎮守府が置かれ、海軍の一大根拠地となっていた。現在もアメリカ海軍と海上自衛隊の基地がある。三浦半島の丘陵地帯を越える必要はあるものの、横須賀から辻堂までは直線距離で20キロに満たない。
辻堂の砂丘は、さまざまな訓練のほか、最新兵器の実験も行われる空間であった。先述した辻堂の寺社仏閣の多い地区にある八森稲荷(はちもりいなり)神社の境内には、下瀬(しもせ)火薬という日露戦争で海軍が用いた高性能火薬の試験に使われた鉄板が展示されている。
沖合では艦艇の軍事演習も行われた。1902年の間に辻堂海岸で行われた一連の砲撃訓練の記録が残っている。1万トン近い一等巡洋艦も参加した射撃訓練は、海水浴客で賑わう7月~8月の夏季を避け、12月~1月の冬季に集中していた。これは、観光地に対する軍の配慮だ。
1904~05年の日露戦争前後は、鎌倉・江の島から辻堂の両隣の鵠沼や茅ヶ崎を経て大磯(おおいそ)・国府津(こうづ)に至る海岸が、大衆的な避暑地・海水浴場となり、同地を指す「湘南」という言葉が普及し始めた時期にあたる。
同時期に、海軍に土地を貸していた辻堂の地主は、鵠沼海岸方面で急速に別荘開発が進むなかで、演習の中止や補償金を要求していた。さらに、第一次大戦後には、実現しなかったものの、軍縮を背景に、軍用地の払い下げ交渉も行われた。
辻堂も「湘南」の一角として観光によって発展する道を、軍用地がふさいでいた。文字通りの意味だ。


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