藤沢市の片瀬(かたせ)海岸と大磯町(おおいそまち)をつないで1936年に全線開通した湘南遊歩道は、辻堂演習場部分のみ海岸沿いから内陸へ大きく迂回するルートとなった。辻堂の地図にみえた、三角形の二辺をなす2つの道路の開通年はいずれも35年。まさに湘南遊歩道の迂回の痕跡だ。
演習場は、さまざまな被害を地域にもたらした。1916年10月3日付『横浜貿易新報』(現・『神奈川新聞』)によれば、辻堂は、「海軍演習地」に選ばれた1886年当時は、おおよそ農業従事者7割と漁業従事者3割の「僻地(へきち)」であり、「鉄砲玉が飛び歩行いて物騒千万、漁業に出るも危険なり、飛んだものが出来たりと厄介視」される向きもあったという。
実際、住民の負傷事件もあった。同紙は、14歳の少女が、小銃射撃演習の際に落ちて散らばっていた「薬管」(薬莢(やっきょう)=弾丸を撃ち出すための火薬が詰まった金属容器で、発砲後に排出される)を拾おうとしたところ突然破裂し、右手の指3本を負傷した事故を報じている(同1902年3月14日付)。
漁業にも損害が生じていたことは間違いないだろう。射撃演習のために出漁できない「浜止め」が年に100日前後にも及ぶとして、辻堂や茅ヶ崎の沿岸地域の漁業組合長らが横須賀鎮守府に補償を求めて陳情に出向いた出来事もあった(同1935年4月27日付)。
1916年に開設された辻堂駅
たしかに被害があった一方で、地域も受け身に甘んじていたばかりではない。
辻堂駅南口の交番前には、大きな開駅記念碑がある。辻堂駅は、大正期に地主を中心とする地元住民たちの請願運動と用地献納によって1916年に開設された。
町議職にある名望家たちが率いた辻堂停車場期成同盟会は、1914年に鉄道院総裁へ請願書を提出する(『藤沢市史 第六巻』)。新駅設置を求める理由には、別荘も含め戸数が増加しているにもかかわらず藤沢駅や茅ヶ崎駅が遠いこと、農産物の移出の便といった住民目線の要求に加え、演習場利用に便利だという国家目線のメリットも強調している。
演習では、数百から数千の軍隊が交代で出勤するほか、火器や弾薬や器材を輸送するために、軍隊にとっても「不便」と「失費」が多いのではないか――住民たちは、軍用地の存在を国家に対する説得材料にして、新駅設置という利益を得ようとした。



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