東京の通勤圏として日本住宅公団(URの前身)によって、入居個数2200戸余りの大規模団地が1964年に完成し分譲された。湘南工科大学(当時は相模工科大学)の開学もその前年だ。辻堂海浜公園は、64年に民間の観光産業センター(サイエンスランド)を一部敷地に建設する案が出るなど、紆余曲折のすえ67年に県立公園計画が決定し、71年に開園した。高度経済成長期における郊外開発の典型である。
このような大規模な開発が、可能になったのはなぜか。
「日本初ロケット火薬実験の地」記念碑が立つ、茅ヶ崎市汐見台の海岸
それはここが、返還された旧軍用地、すなわち民有地ではなく国有財産だったからである。海岸線と道路によって区切られた三角形の空間は、戦前の地図でも一目瞭然だ(図1-1下)。
具体的にいえば、旧日本海軍の辻堂演習場である。西端にあたる茅ヶ崎市汐見台の海岸には、「日本初ロケット火薬実験の地」記念碑が立つ(図1-3)。
1934年、辻堂演習場において、戦後にロケット開発のパイオニアとなる村田勉らがロケット火薬の開発実験を行った。さらに戦時中には同演習場で噴進砲と呼ばれたロケット弾の発射実験・訓練も行われた。江の島を望む美しい砂浜に、かつてここが軍事演習場であった過去を伝える物語がさりげなく現れる。
先ほど地図で見た、団地や大学から成る開発空間は、まるごと辻堂演習場だった。ここで、海軍の兵士たちが、2泊3日程度の陸戦訓練を行った。彼らは江の島を望む海岸で銃を構え、2つの軍に分かれて広大な敷地で戦闘演習をしていた(図1-4)。第一次世界大戦の戦場を彷彿させるような長大な塹壕も掘られていた(図1-5)。
そこには、鳥取砂丘に次ぐ規模といわれた広大な砂丘が広がっていた。地元の人々から「からっつらっぱ」(空砂場(からすなば)のなまり)と呼ばれ、砂まじりの風が海から吹き付けていた。兵士たちはその砂丘をかけあがっていく。


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