この本の中でマルクスは、ドイツの著名な哲学者であるフォイエルバッハの疎外理論を批判しています。
フォイエルバッハは、宗教における疎外という問題を批判するために、まず「神とは人間が自ら生み出したものだ」と言いました。
どういうことか。人間とは本来、自由で普遍的な存在で、理性や意志、愛といった優れた本質を持っているはずです。けれども、それを神という外部の存在に投影し、譲り渡してしまった。そのせいで、自分たちを「なんて無力でちっぽけな罪深い存在なんだ」と見なし、自ら疎外されるようになる。自分たちが頭の中で生み出したものによって支配されているのが人間なのだと指摘したのです。
では、疎外を乗り越えるためにどうするか。フォイエルバッハの主張はこうです。人間は個としては有限なので、他者と結びついて、「類的存在」に近づかないといけない。そのためには、本来持っている豊かな力や属性を、「愛」を通じてとらえ直す必要がある。言い換えれば、人の意識を変えることで、疎外を克服していけるというのです。
フォイエルバッハのこの主張は、それまでの私の思考と非常に近いものでした。人の意識を変えることで問題を解決しようとしていたからです。当時の私は、日本の行き詰まりを、日本人が本来持っていた日本の良さを忘れ、アメリカに自らの理想を投影したせいだととらえていました。だから、その疎外状態を、徳を取り戻すことで乗り越えなくてはならないんだ、と考えていたのです。
それに対して、マルクスの考えは、まったく違うものでした。
自分の世界の見え方が、180度覆された
マルクスは、こう主張します。人間が神というものを生み出さずにはいられない原因は、現実の社会構造(システム)の側にある。要するに、人間が神を生み出すことで疎外されるようになってしまうというのは、人間の意識の問題ではない。社会構造の問題なんだ、というわけです。
であるなら、疎外を乗り越えるためには、意識を変えて、世界を別様に解釈するだけでは足りない。システムそのものを変えなくてはならないし、システムを生み出している私たちの行動を変えなくてはならない──。『ドイツ・イデオロギー』でマルクスはこうフォイエルバッハを批判したのです。
この指摘は、私の考えを根底からひっくり返すものでした。それはまさに、コペルニクス的転回。自分の世界の見え方が、180度覆されてしまったのです。
実際、マルクスの思想を通して見ると、経済格差や戦争、不平等といったさまざまな問題がなぜ起こっているのかが、すっきりと理解できる気がしました。「徳が失われたからだ」と私が思い込んでいたさまざまな問題の根幹には、実際には資本主義という社会構造、そして世界で広がりつつあった新自由主義の存在があるのではないか。そう気づかされたのです。

