本田哲也:ファンダムについてお話ししましょう。まずは内海さんから。ソニックは30年以上続いていますが、その歴史を教えていただけますか。
内海州史:映像でご覧いただいたように、ソニックは今や至るところにいます。映画にも、もちろんゲームにも、テレビ番組にも登場していますし、たくさんのおもちゃやぬいぐるみ関連の商品があらゆる場所にあります。しかし、そのようなスターとしての地位への道のりは簡単ではありませんでした。このチャートを見ると、ソニックの人気の推移が分かると思います。
2000年初めの時期までは、ソニックはかなり順調でした。ただ、その後は本当にかなり厳しい時期が続いていました。そして回復のきっかけになったのは、(現ソニッククリエイティブオフィサーの)飯塚さんが東京からアメリカに移った頃です。その後、コミュニティ担当のスタッフを一人採用しました。この担当者は本当にクリエイティブで、コミュニティの中でいろいろな面白いことを仕掛けてくれました。
その結果、私たちのコミュニティは、フェイスブックからTikTokに至るまで幅広く成長していきました。そしてコミュニティの中に、ひときわユニークでクリエイティブな人がいて、「一緒にゲームを作りたい」と言ってきたのです。そこで実際に彼とゲームを作ったところ、それが大ヒットしました。その後、映画化の話が持ち上がったというわけです。映画についてはまた別のストーリーがあるのですが、その映画をきっかけに、私たちはトランスメディアの展開を開始し、今に至っています。今日は、これまで私たちにどのような出来事が起きたのか皆さんと振り返りながら、これから先必要となること、そしてどのような広告施策やファンコミュニケーションが求められるのかについてお話ししたいと思います。
本田:内海さん、ありがとうございます。さて、飯塚さんは、長年にわたってソニックのクリエイティブを牽引してこられましたね?
飯塚隆:30年以上ソニックの仕事をしていますね。
本田:30年以上とは、本当に長い時間ですね!内海さんが『ソニックマニア』について語ってくださった話題の一つに、ファンとのコラボレーションがありました。それはどのような感じだったのでしょうか? あなたはソニックのクリエイティブを統括されていた中で、ファンの方々があなたのもとを訪ねてきたとのことですが、その様子について教えてください。
『ソニックマニア』はどのように生まれたか?
飯塚:約10年前、インディーズ開発者の小さなグループが私のオフィスを訪れ、新しいソニックのゲームを作りたいと提案してきました。今では素晴らしい開発者である彼らですが、当時はコンソール向けゲームの開発経験がほとんどありませんでした。ですから、正直なところ、私の最初の反応は「あり得ない!!」でした。
しかし、話し合ううちに、彼らがどれほど情熱と創造性に溢れているかを実感するようになりました。それに、彼ら自身がソニックのファンだったからこそ、ファンが本当に求めているものを、身をもって理解していたのです。彼らならソニックコミュニティに新たな活力を吹き込むことができるかもしれない、と思いました。そこで私は、断るのではなく、彼らに新たなコンセプトを提案したのです。それが『ソニックマニア』でした。
本田:タイトルを『ソニックマニア』に!
飯塚:はい、『ソニックマニア』です!
内海:当時の日本では、私はその場にいたわけではありませんでしたが、ソニックは比較的低い位置づけで見られていて、主力ポートフォリオの中心から外れた存在だったと思います。そういう意味では、挑戦のハードルはむしろ低かったのかもしれませんよね?
飯塚:そうですね。
内海:つまり、それくらい当時はソニックの状況は厳しかった。
本田:だから東京を離れたんですか?
飯塚:ええ、そのためにロサンゼルスに移ることになったんです。
本田:ここでの最初の学びは、「ファンダムを活性化すること」だと思います。ブランドを成長させる最善の方法というのは、常に新しいファンを探すことだけではなく、飯塚さんがおっしゃったように、すでにいるファンの情熱をもう一度活性化させることです。ファンダムを活性化し、オーセンティシティを保つこと。それが重要です。では次に、ソニックのブロックバスター映画についてお話ししたいと思います。内海さん、お話しいただけますか。
この記事は会員限定です
残り 2984文字

