「はじめまして! よろしくね。インタビューは日本語ですか。それとも英語? 僕的には日本語の方が楽なんだけど……」
香港のカフェに現れた彼が口にしたのは意外な一言だった。
かつて日本でお茶の間の人気者となったチューヤン。53歳になった今も、愛嬌のある笑顔はそのままだ。しかし鮮明に残っていた「カタコトの日本語で話す愛されキャラ」のイメージは、その流暢な挨拶によって一瞬でひっくり返った。かつてのチューヤンとは少し違う、落ち着きと自信がにじみ出るプロフェッショナルの顔がそこにはあった。
故郷の香港で、彼はどうやって第2の人生を切り拓いたのか。その歩みを追った。
日本へ来る前の彼は、香港の専門学校で学び、在学中の10代後半からグラフィックデザイナーとして働いていた。22歳からは老舗の民放ラジオ局「香港商業電台」でDJを務めていた。
チューヤンの日本行きは、運命のいたずらのように突然やってきた。ラジオ局で突撃取材を担当していた彼は、香港の新聞で「言葉が分からなくても日本の芸能界に入れます!」という怪しさ満点の広告を発見した。「これは絶好のネタだ」と潜入取材のつもりでオーディションに応募したところ合格してしまったのだ。
こうして25歳のチューヤンは、日本テレビ系のバラエティ番組『進ぬ!電波少年』で芸能界デビューした。相棒の伊藤高史氏と共に「朋友(パンヤオ)」としてアフリカ・ヨーロッパ大陸を横断し、日本中で知られる顔となる。その後も、番組の司会やバラエティ番組、ドラマや映画まで、日本の芸能界で多彩な才能を発揮していった。
「カタコトでなくなった」日本語が足かせに
新しいことに体当たりで挑戦する7年間を日本で過ごし、32歳となった2005年。チューヤンは日本の芸能界を引退し、香港へと戻った。突然、香港に帰ってしまい驚いた人もいたことだろう。その第1の理由は父親の病気だった。「5人きょうだいの中で唯一の息子の僕が近くでサポートしなければ」という責任感が彼を香港に帰らせた。
もう一つの理由は「中途半端にうまくなった日本語」だ。「カタコトの日本語キャラ」でブレイクしていたため、皮肉にも言葉がうまくなるほど仕事がやりにくくなった。「僕の日本語が”微妙”にうまくなってしまって……。仕事には邪魔になるんかなって思いました」と当時を振り返る。

