しかし、この引退が、進みたかった新たなキャリアへと方向を転換するきっかけとなる。
じつは、チューヤンは日本の芸能界で忙しい日々を過ごしながらも、「デザインの仕事をしたい」という想いを抱き続けていた。
「学校でデザインを勉強したのに、そのスキルを使えていないなんてダメだなと、日本にいる頃からけっこう残念に思っていました」
日本でデザインの仕事をしていなかったわけではない。1999年には、後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ)で開催された「雷波少年系遊園地『後ろ楽しいガーデン』」イベントでグッズやポスターのデザインを手がけた。
それでも、芸能界で忙殺される日々の中、本当にやりたい仕事ができているとは感じられず、「得意なデザインでもっと挑戦したい」という気持ちはますます強くなった。
香港に戻った翌年の2006年に大好きだった父親が他界してしまった。時を同じくして、古巣のラジオ局から「クリエイティブ・ディレクター」のオファーが届いた。専門学校で学んだデザインの知識に加え、日本のメディアの現場で培った「デザイン感覚」への期待からの起用だった。悲しみの中、香港のクリエイティブ業界で、念願のスタート地点に立てることが決まったのだ。
彼はこの新たな挑戦を「父が与えてくれたチャンス」と考え、前を向いた。その後、2つの広告代理店を渡り歩き、デザインのプロとしてのキャリアを積み上げていった。
母親の介護、コロナ禍…孤独から救った日本とのつながり
そうした中、また事態が暗転する。
街を埋め尽くすデモのニュースで世界中の注目が香港に集まっていた頃、チューヤンもまた、出口のない暗闇に閉じ込められていた。
2020年、母親が体調を崩し、同居して介護をする生活が始まった。コロナ禍に加え、中国による「香港国家安全維持法」が施行され、これまでの自由が揺らぐ不安が街中を襲った。毎週のように会っていた親しい友人たちは、次々とイギリスや台湾へと移住。
根っからの「人好き」のチューヤンにとって、ひたすら画面に向き合って1人で働く日々は、「未来が見えず、精神的に追い詰められる」ほど孤独な時間だった。
このどん底からチューヤンを救い出したのが、日本とのつながりだった。現状を変えたいという一心で始めたのがSNSだ。
『電波少年』時代の相棒で現在も友人の伊藤氏に「日本語でX(旧Twitter)をやってみようと思うんだけど、どう思う?」と相談したところ、伊藤氏は「いいじゃない。みんな喜ぶよ」と背中を押してくれた。

