実際には、秀吉は事前に情報をキャッチしており、記載よりも2日ほど早く、備中高松城を出発していたのではないか、そんな臆測もなされている。
また近年では、新たに発見された羽柴秀吉が書いたと思われる書状から、馬部隆弘氏が「山崎の合戦に羽柴秀吉が遅参していた」とした新説も注目されている。
「大返し」の必要なく最も近くにいた男
そんなふうに、どうしても遠方から駆けつけた秀吉の「中国大返し」にスポットライトがあたりがちだが、秀吉とは逆に、「本能寺の変」直後に最も有利な位置にいたのは誰だったのか。それは、信長の三男・織田信孝である。
信孝は1万4000の兵を率いて、堺から四国へ渡海する寸前だった。渡海の決行は6月2日、または3日と予定されていた。つまり、まさに本能寺の変が起きた当日に出港するはずだった軍勢が、大坂・堺周辺に集結していたのである。
距離の近さにおいても兵力においても、この夜に最も天下に近かったのは、信孝だった。しかし、有利な状況を生かせるかどうかは、また別の話だ。信孝の行動を振り返ってみよう。
この四国遠征は、信孝にとって念願の大役であり、信孝が強く望んで実現した遠征だったとされている。信長もまた、そんな我が子の意欲をくみ取っていたのだろう。
信長は四国遠征の総大将に信孝を据えると、副将には、宿老の丹羽長秀、その義弟にあたる蜂屋頼隆、そして過去の記事("本能寺の変"前夜、出世の階段を駆け上がっていた男の正体 冷徹な信長が二度も裏切った弟の子を重用したワケ)でも取り上げた津田信澄という、織田家中でも屈指の重臣たちを配置。さらに人夫・馬・兵糧・黄金など、破格の贈り物を信孝に送ったとされている。
『信長公記』には、次のように書かれている。
「このたび、信長は阿波の国を織田信孝に与えた。そこで信孝は軍勢を率いて出陣、5月11日、住吉に到着した。ここで四国へ渡海するための船を手配し、準備は半ばまで進んだ」
そして6月2日、出港まであと数時間という夜明け前に、本能寺の変が起きた。
京と堺は目と鼻の先だ。もし軍が機能していれば、真っ先に光秀へ向かえる位置にいたのは信孝だった。
しかし、信孝が率いた軍勢は、副将陣こそ精鋭だったものの、その実態は北伊勢の百姓から伊賀衆・雑賀衆まで急遽かき集めた、いわば寄せ集めだった。「本能寺の変」の報を聞くや兵の多くは逃亡してしまう。
そんな中、信孝が最初に動いた先は、光秀ではなく、副将の1人である津田信澄だった。

