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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

"本能寺の変"直後あんなに近くにいたのに!秀吉でも、柴田勝家でもない《天下に最も近かった男》の正体

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岐阜城(写真:まちゃー / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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過去の記事で詳しく述べた通り、信澄が実際に謀反に関与していたかどうかは不明だが、信孝は光秀の娘婿であることを問題視して、これを攻め滅ぼしている。

一方、備中で毛利と交戦中だった秀吉は、遠方にいたものの、光秀を討つべく、中国大返しで一気に畿内へ引き返した。外敵に向かった秀吉と、まず内部を処理した信孝。この違いが、その後の明暗を分けた一因となった。

6月11日、中国大返しで摂津国尼崎に着陣した秀吉のもとへ、信孝は自ら出向いて会見を行っている。翌日、秀吉は信孝・長秀の到着を待たずに軍議を始め、布陣を決定。弔い合戦の総大将の座は名目上信孝に与えられたものの、実際の軍の指揮は秀吉が握った。

その後、主導権を握った秀吉は葬儀を取り仕切り、清洲会議でもイニシアチブをとり、「信長の後継者」のポジションを手中に収めることとなる。

「天下人への道」を歩む兄を支えた弟

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信孝は柴田勝家と結んで秀吉に対抗しようとするが、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗北。孤立した信孝がなんとか岐阜城で再起を図るも、兄の信雄の軍に追い詰められて、尾張野間の大御堂寺で自刃することになる。享年26で生涯を閉じた。

一方で、秀吉は「山崎の戦い」「清洲会議」「賤ヶ岳の戦い」で存在感を発揮し、天下への階段を駆け上がっていく。そのすべての場面で、弟の秀長は、裏方として動き続けた。

信孝が「幻の天下人」として消えていくのと対照的に、秀長は秀吉の「天下人への道」を着実に支えることとなった。


【参考文献】
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』‎ (吉川弘文館)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
河合敦著『豊臣一族  秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)

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