1990年代の金融危機の検証を再開する。取り上げるのは戦後初の銀行倒産となった兵庫銀行。これまで報告したように、長く続いた「銀行不倒神話」はバブル崩壊で大きく揺らいだが、大蔵省銀行局が必死で守ってきた。それが瓦解した最初の事例である。
日本橋本石町の日本銀行本店に神戸支店から緊急連絡が入ったのは、92年の初夏のことだ。
「8月20日以降、兵銀の金繰りがつかなくなるおそれがあります」
電話を受けたのは取引先金融機関の経営をモニターする考査局管理課。すぐに、危機対応を担う信用機構局(現金融機構局)との検討が始まる。これが3年に及ぶ「兵銀危機」の起点となった。
神戸を拠点とする兵銀は資金量3兆2900億円を超える第二地方銀行の最大手だった。もともとは日本独自の金融形態である「無尽」として発足。その後相互銀行を経て、89年、宿願の普通銀行(第二地銀)への転換を果たした。
長谷川寛雄会長のワンマン拡大路線の下、すでに競合行が貸し出し抑制に転じた90年以降も不動産関連の大型案件に取り組み、他行で断られた融資まで肩代わりするなどシェア拡大に突き進んだ結果、系列ノンバンクとともに多額の不良債権を抱え込む。
しかもシェア拡大の過程で大口預金や譲渡性預金の取り入れに傾斜し、その額は資金調達全体の3割を突破。経営難で市場に不安が広がると、足の早い市場性資金は瞬時に逃げていった。その結果、大口定期の満期が集中する92年8月20日以降の資金繰りが窮迫する事態となったのである。
「本当に破綻しかねない」 5項目の対策案提示
この記事は有料会員限定です
残り 1902文字


