この視点は、女優の“評価問題”に重要な示唆を与える。
配信ドラマが一般的になり、私たちは映画やドラマを「購入・消費」するようになった。そのとき視聴者は、出演女優を「この作品を楽しむための手段」として無意識に客体化している。
つまり女優は、消費者が対価を払って選ぶ「商品」と同じ枠組みで評価される場面に常に置かれている。だからこそ、商品パッケージのプロトタイプから外れた存在が批判されるのと同じように、「女優のプロトタイプ」から外れた体型変化が批判されるのだ。
「スーパードライ」と「野呂佳代」との共通点
だとすれば、ビジネスの世界で起きたある現象が、野呂佳代に起きていることとまったく同じ構造であることに気づく。
87年、アサヒビールは「スーパードライ」を発売した。
当時の市場では「キリンラガー」の味が、「コク・旨み」を定義するプロトタイプとして君臨していた。しかしアサヒは「辛口・キレ」という、まったく異なる枠組みで消費者の第一印象を刻み、評価された。
それによって「ラガーのプロトタイプから逸脱した存在」は認めらない、という評価軸を丸ごと覆したのだ。
筆者が資生堂在籍中に企画した、制汗スプレー「Ag+(エージープラス)」も同じ構造だ。
当時の市場プロトタイプは「香りありがエチケット」だった。しかし、Ag+は「無香料で銀イオンによる殺菌消臭」という別の枠組みで印象付け、評価された。「香りがない=劣っている」という既存の評価軸が崩された。
スーパードライもAg+も、最初の瞬間に別の枠組みで記録されて評価されたからこそ、既存プロトタイプの評価軸で裁かれなかった。「野呂佳代のぽっちゃり」が劣化と言われない理由は、これと同じ構造だ。
この「別枠組みで第一印象を刻む」女優のパターンは、日本の芸能史の中で繰り返し登場してきた歴史的な系譜でもある。
68年、TBSドラマ『肝っ玉かあさん』で、女優の京塚昌子が恰幅のある体型のまま「日本のお母さん女優」として国民的な人気を獲得した。視聴者の海馬に「温かさ・肝っ玉・庶民の代弁者」という枠組みで記録された瞬間から、その体型は「個性の証明」として機能し続けた。
