その一方で、単独では謀反を起こすほどの力がなくとも、敵対勢力と結ぶことを想定すると、誰が牙をむくかわからない。毛利氏に呼応した別所長治が、そのよい例である。
伯父の影響で先んじて信長に仕えた別所長治
別所氏は播磨の守護である赤松氏の一族で、播磨のほぼ半国を勢力下に置く有力国人だった。別所長治は、父の長勝を亡くすと、わずか7歳で家督を継承する。まもなくして、後見の祖父も亡くなったため、吉親と重棟という2人の叔父が長治を支えた。
長治が信長に仕えたのは、叔父の重棟による意向が強かったようだ。なにしろ、重棟は元亀元(1570)年の野田・福島攻めの時には、別所一族で一人だけ、信長に加勢の軍を出している。
そんな叔父の重棟とともに、長治は天正3(1575)年、相国寺にいる信長を訪ねて拝礼。ほかの大名に先んじて信長に仕えた。天正5(1577)年、長治と重棟は秀吉と同じく、信長の雑賀攻めにも従ったことが、『信長公記』からもわかる。
「内陸方面へは、根来の杉之坊と三緘衆を案内者にして、佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗(重棟)・堀秀政の軍勢。雑賀の地へ進撃し、諸所を焼き払った」
そんな中、同年の天正5(1577)年10月に、秀吉は信長から播磨の平定を任じられることになる。別所氏だけではなく、小寺氏や赤松氏も信長に下っていたため、秀吉は着実に任務を遂行したようだ。11月には播磨福原城、12月には七条城と攻略に成功した。
順調に進んだかに見えた播磨平定だったが、そんな秀吉に反感を持った人物がいた。長治のもう一人の叔父である別所吉親だ。
