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ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

竹中半兵衛でも光秀でもない…信長を唖然とさせた裏切り者の正体 別所長治を皮切りに相次ぐ謀反で混乱「三木合戦」の裏側

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播磨「三木城」近くの竹中半兵衛の墓
播磨「三木城」近くの竹中半兵衛の墓(写真:kumayosi / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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天正6(1578)年に別所吉親は評定の場で、秀吉の振る舞いを激しく批判した。『播磨別所記』には、次のようにある。

「羽柴秀吉がこの地に入り、勝手な振る舞いをしている。このままでは災いがやがて我が身に及ぶことになるだろう」

吉親はかねてから毛利びいきで、出自の低い秀吉に従うことを屈辱に感じていたらしい。

別所氏に謀反の動きがあると知った秀吉は、このときに陣営内にいた重棟を三木城へと派遣。吉親を説得させようとするが、長治にとってともに叔父にあたる、この2人の兄弟は不仲だった。

というのも以前、弟の重棟がちょうど京にいたときに、三好三人衆に将軍御所が襲撃される。重棟は三好三人衆らとの戦いで活躍し、将軍の義昭から賞賛されたという。

そこまではよかったが、それ以後、重棟は増長して、何かと兄の吉親を軽視するようになったという。そんな弟の重棟が信長につき、秀吉にも従っていることが、吉親には許しがたかったようだ。

吉親の影響を受けて、長治もまた、重棟の再三にわたる説得を拒絶。毛利輝元の誘いに乗じるかたちで毛利方に転じて、信長方から離反する道を選ぶ。

天正6(1578)年2月、長治は近隣の地侍や農民とともに、三木城に籠城することとなった。

三木合戦の最中に意外な男が裏切る

天正6(1578)年3月29日、秀吉は三木城包囲を開始する。川と高地に囲まれた三木城を攻め落とすにあたって、秀吉はまず補給路を断つべく、約40か所に及ぶ「付城(つけじろ)」を構築。支城を次々と落としていった。その間、東へ進軍した毛利軍によって、秀吉方の上月城は陥落する。

当初は長治が優勢だったが、補給路を断つ秀吉の作戦が次第に効果を発揮する。三木城は周囲から孤立していく。

ところが同年10月、思わぬことが起きる。秀吉軍に従軍していた荒木村重が「三木合戦」の最中に戦線を離脱。居城であった有岡城に帰城すると、毛利氏について籠城したのである。10月21日には、村重の逆心が信長の耳に入ったようだ。

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