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「人口20万人なのに百貨店1店だけ」「その店も売上低迷で消滅」…茨城屈指の"企業城下町"で百貨店が根付かなかったワケ

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伊勢甚のロゴマーク
なぜ企業城下町として発展した日立市で、百貨店が根付かなかったのか(写真:筆者撮影)
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77年、伊勢甚の百貨店事業はジャスコグループに移行した。店名はしばらく「伊勢甚」のままで続いたが、89年のグループ内ブランド統一に伴い「ボンベルタ伊勢甚日立店」へと改称された。

バブル崩壊後、グループは地方百貨店の整理を進める。94年に勝田店がジャスコ勝田店へ業態転換するも、2010年に閉店。03年には創業地の水戸店が閉店している。一方、日立店は「比較的好調」とされ、最後まで営業を続けていた。

ただ、2000年代に入ると状況は変わる。日立製作所本体の事業再編が本格化し、国内雇用の縮小が始まったのだ。市の地域再生計画によれば、市内大手企業の従業員数(市外在住者を含む)は1994年の2万1066人から2021年には1万2004人へと減少している。

閉店後の数字も含まれるが、企業城下町を支えた雇用は、百貨店と同じ速度で縮小していった。

そして05年5月、売り上げの低迷と追加投資の困難を理由に、ボンベルタ伊勢甚日立店は閉店。

当時、市民の間では「日立が寂れていく」といった声も上がっていたという。企業城下町を支えてきた百貨店の閉店は、単なる商業施設の撤退以上の意味を持って受け止められていた。

閑散とした商店街。すれ違ったのは1〜2人だけだった(写真:筆者撮影)
平日だが、シャッターの下りた店が並ぶ(写真:筆者撮影)

企業城下町と歩んだ百貨店

丸和百貨店は、日立鉱山や日立製作所の発展とともに成長した。のちにボンベルタ伊勢甚日立店へと名前を変えながらも、企業城下町の縮小とともに消滅した。

ただ、それだけでは説明しきれない点もある。なぜ日立では百貨店が増えなかったのか。そして、最後の1店すら維持できなかったのか。

閉店の背景を理解するには、企業の変化だけではなく、日立市特有の都市構造を見る必要がある。次回は、その背景を探る。

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