入学してしばらく経つと、絵に描いたような東京生活を謳歌するようになった。友達も彼氏もできて、御茶ノ水以外の街にも出かけるようになって、夜遊びも覚えた。しかし、東京での日々は刺激的で楽しい反面、とても疲れるものだった。何が辛いのかわからないけれど辛くて、帰りの東海道線の中で涙が止まらなくなったこともある。
そんなとき、西谷に帰ってくるとほっとした。「あぁ、私って東京では肩に力が入っていたんだな」と気付いた。
手に負えない娘と、何も言わない父
単身赴任をしていた父と暮らすのは数年ぶりだった。当時、私は19歳、父は55歳。仲が良いわけでも、悪いわけでもない。私は父と暮らすのは別に嫌ではなかったが、父のほうは、本当は嫌だったのではないかと思う。
というのも、当時の私は手に負えない娘だったからだ。中学時代に仲良しグループから仲間はずれにされたことをきっかけに不登校になり、メンタルが不安定になった。その後、高校も中退。通信制に再入学したため同級生よりも1学年遅れている。メンタルクリニックでは「病気なのか思春期だから不安定なのか見分けがつかない」と診断名をつけられず、そのくせ薬は処方されていた。
あまりにも気分の波が激しく、日によってポジティブだったりネガティブだったりするので、私自身も自分に振り回されていた。
友達といるときは基本的に明るい。一学期最後の日にみんなで浴衣で学校に行くことを提案したら、学年の半数以上が参加してくれたこともある。
一方で、訳もなく憂鬱になって布団から出られず、「私なんか消えたほうがいいんだ」と泣きじゃくる日もあった。また、入学してすぐに付き合いはじめた先輩は、顔はいいけれど機嫌が悪い日は言葉で八つ当たりをしてくる人で、傷つけられるたびに泣いて寝込んだ。私の部屋と父が居住しているリビングは襖で隔てられていたので、私の嗚咽は父にも聞こえていただろう。
こんな不安定な娘と暮らして、父は内心どう思っていたのだろう。父との会話は少ない。私はバイト先の居酒屋でまかないを食べていたので、父と夕飯を共にすることがあまりなかった。父は自炊していて、たまに一緒にご飯を食べるときは、煮物やポテトサラダを振る舞ってくれた。
父は家事をきちんとする人だったが、当時の私は家事ができていなくて、部屋は散らかり放題、布団は敷きっぱなしだった(服が好きだったので洗濯だけはきちんとしていた)。私が学校をサボっても、どれだけだらしない暮らしをしていても、父は無言だった。
しかし、一度だけキレそうになったことがあるらしい。私は丸い缶にたくさんのピアスを収納していたのだが、落としたのかピアスを選ぶためにそうしたのか、とにかくピアスが床にぶちまけられた状態で学校に出かけた。父はそれを見て、「抑え込んでいた感情があふれそうになった」そうだ。私はその話を、あとになって母から聞いた。
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【「あいつ、子どもみたいに無邪気に『わーい!』って言うのが可愛いんだよな」】
