横浜駅西口「砂利置き場から一大繁華街へ」の70年 放置されていた「荒れ地」が変貌、次の再開発も始動

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川又はその財をモスリン事業に投じる。モスリンとは羊毛を原料とした薄手の毛織物のこと。明治から大正へと年号が変わり、人々の装いも呉服から洋服へと進みつつあったことから有望視し、当時株価が低迷していた上毛モスリンの株を買い進め、1920年に専務取締役に就任。大日本紡織(練馬工場)、富士毛織(沼津工場)の買収など、積極経営を進めた。

だが1923年に発生した関東大震災が事業を直撃。練馬工場の倒壊などにより「焼失した商品その他の損害は約一千五百万円」(『川又貞次郎の追憶』)にも及んだ。

川又貞次郎
相鉄の9代社長に就任し横浜駅西口開発を推進した川又貞次郎(写真:相鉄グループ)
【昔の地図】川又貞次郎が築きあげた事業を奪った関東大震災は、現在の横浜駅西口付近の運命も変えた。石油の貯油タンク群があった地域は地震以降「荒れ地」に

全財産を失ったものの、まだ30代の働き盛りだった川又は、2年間の蟄居(ちっきょ)の後、次なる事業として、震災後に郊外の人口増加で発展著しかった鉄道業界へ身を投じていく。

成長産業だった「鉄道業」へ転身

当時、鉄道業界では野心的な企業家たちによって多数の路線計画が持ち上がっていた。その一つ、「東京山手急行電鉄」は、山手線の外側にさらに大きな半環状路線(大井町―洲崎町間・約50.6km)を建設するという大胆な計画だった。

社長には小田急創業者の利光鶴松が就任し、川又も参与として計画に名を連ねた。だが、まもなく世界恐慌の波が押し寄せ、小田急を開業したばかりの利光も長大な路線を建設する資金的な余裕がなかった。

そこで、同じく利光の傘下に入った渋谷急行電鉄(現・京王井の頭線・約12km)と山手急行を合併(合併後は東京郊外鉄道)。まずは距離の短い渋谷急行の建設に着手し、帝都電鉄と改称後、1934年4月に渋谷―吉祥寺間を全通させた。同年12月、川又は同社の常務取締役に就任している。

帝都電鉄 電車 パブリックドメイン
帝都電鉄(現・京王電鉄井の頭線)開業時の電車(写真:鉄道趣味社/wikimedia commons)

1940年5月、同じく利光傘下の小田急が帝都電鉄を吸収合併すると、川又は小田急の常務に就任した。それまでも帝都電鉄の業務を遂行する傍ら小田急の顧問を兼務し、主に砂利業を手がけてきたことから、小田急はすでに馴染みのある会社だった。ちなみに砂利業とは、土木工事やコンクリートの原料として使われる、川砂利を採取・運搬する業態である。

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