今回、久月の八代目社長・横山久俊さんに話を聞くことができた。横山さんは、浅草橋が人形の街になっていった歴史を次のように語る。
「久月の初代・久左衛門が浅草橋付近に住居を構えたのは今から200年ほど前の1835年です。当時、このへんは茅町と呼ばれていました。茅町は浅草の浅草寺への参道になっていたので、人の往来が多く、人形などのお土産を扱う店が軒を連ねていたそうです。また神田川と隅田川の合流地点で、船での運送に便利な場所だったので、ひな人形や雛道具を扱う店が並ぶようになり、それらを扱う雛市が開かれるようになったと聞いています」
初代・久左衛門は、表札に「久月」の屋号を掲げていた。その頃は人形問屋ではなく、腕のいい人形師。つまり職人だった。そもそもは、武蔵国足立郡出身の武士という変わり種だ。
八段飾りの新常識を提案
「二代目から久兵衛を名乗るようになり、二代目久兵衛は、三代目となる息子を、当時江戸一と言われた人形問屋の吉野屋(後の「吉徳」)に奉公に出しました。三代目は、ここで出世し、やがて独立。そして四代目久兵衛が「久月」の屋号を復活させて、今に至るわけです」(横山さん)
その後、久月はそれまで七段飾りがスタンダードだった雛飾りの世界に八段飾りの新常識を提案するなど、業界の牽引役として歴史を重ねている。
また、浅草橋はお隣両国とも因縁がある。総武線に乗ると、隅田川を越えて一駅先が両国駅だ。隅田川には両国橋がかかっている(浅草橋から直線距離で300mほど)。歴史的に見ると、川の西側が武蔵国で、東側が下総国に属している。この両方の国をつなげた橋だから両国橋という名がついた。
かつては、橋の両岸一帯が両国と呼ばれていたという。前出の横山さんは次のように語る。
「今の墨田区両国は、昔は隅田川の向こうだから『向こう両国』と呼ばれていたらしい。だから、古い人のなかには隅田川の西側、つまり東日本橋や浅草橋界隈が本当の両国だっていう人もいますよ(笑)」





















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