例えば、近接する大宮市には当時、高島屋・西武・丸井・ダイエー・イトーヨーカドー・駅ビル2棟が揃っていた。対して春日部市はニチイとイトーヨーカドーと、いくつかの小型スーパーのみ。業界史『激流』には「市民は文化の香りに吸い寄せられるように、大宮市へと流れ込んでいた」と記されている。
開業時の春日部市長・田中俊治氏も埼玉新聞への寄稿で「本市の商業は百貨店出店によってますます活性化し高級化、多様化を指向する都市型商業へといっそう魅力あるものになり、市民文化の高揚をたかめる」と期待を語った。市も商店街も、百貨店に大きな期待を寄せていたのである。
百貨店を必要としたのは、あくまで商店街と行政だった
一方で、1985年当時の春日部市民の実態は、こうした期待とは少し異なっていた。業界誌『月刊食堂』(柴田書店、1986-03)によれば、市内の人口構成は30〜40代と10歳以下の子どもが突出しており、一人当たりの市民所得は170万円(昭和58年度)と比較的低かった。
背景には、マイホームを求めるニューファミリー世代の流入があった。春日部は、首都圏で初めて家を持つ場所として選ばれていたものの、住宅取得直後の家庭は住宅ローンの負担が重く、「可処分所得はかなり低い」と指摘されていた。
西口にあったイトーヨーカドー春日部店は、漫画『クレヨンしんちゃん』に登場する「サトーココノカドー」のモデルとして知られる。当時の推定年商は100億円。「IYグループ切っての親孝行店」と呼ばれるほど好調だった。
その隣に、ロビンソン百貨店は初年度目標150億円を掲げて開業する。伊藤雅俊社長(当時)は次のように語っていた。「12年前にヨーカドーを開店した頃の対象客は団塊の世代だった。その人たちが今では中流意識を持ち、ヨーカドーの品揃えでは満足できなくなっている」。
しかし実際の春日部に住んでいたのは、成熟した団塊世代ではなく、住宅ローンを抱えた若い家族だ。ロビンソン側も「30〜40代のローンを抱えた世代にも十分利用していただけるよう配慮した」と語っているが、その配慮は十分に届かなかった。
つまり、百貨店の「空白」は需要の空白ではなく、すでにGMSが満たしていたあとに残っていた、言い換えれば「不要だから空いていた」空白だったのである。
商店街を救済したい行政と、GMSで満足していた市民の消費実態。その二つは、最初から噛み合っていなかったといえる。
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