蔦屋重三郎の功罪!写楽はわずか10カ月で消息を絶った…使い潰され、「芸術上の崩壊現象」とまで酷評されるようになったワケとは
では、どういった点が「芸術上の崩壊現象」と評されたのでしょうか。「中山富三郎の牛飼お筆」と「二世榊山三五郎の関白道長の息女おたへ姫」という2作品を見ても分かるように、描かれている女性の表情や姿体はどこか似通っています。

これは、原型があり、それをコピー(もしくはアレンジ)して描かれたのではと推測されているのです。
蔦屋重三郎が写楽の才能を"潰した”?
ではなぜ、このような仕儀となってしまったのでしょう。
筆者は、これまでの写楽作品の刊行形態が大きく関係しているように思うのです。前述したように、写楽は5月、7月、11月と多数の作品を一挙に刊行してきました。短期間に多数の作品を刊行することは、作者(写楽)に多大な負荷をかけます。
その負荷が、作品にあらわれて、現代人から「芸術上の崩壊現象」と酷評されるような状況を生んだのではないか。筆者はそう推測するのです。多数の作品を一挙に刊行するというのは、蔦屋重三郎の発案でしょう。確かにそれは目新しいものであり、話題を呼んだでしょう。
しかし、一方で、稀代の芸術家・写楽の才能を押し潰す結果となったと思うのです。年が明けた寛政7年(1795)正月、写楽は計12枚の絵を描いていますが、それを最後として、彼の消息はぷっつりと途絶えてしまうのです。
わずか10カ月ほどの活動期間を経て、消息不明となった写楽。彼が「謎の浮世絵師」と呼ばれる所以です。重三郎は写楽の消耗ぶりを見て、彼にこれ以上、絵を描かせるのは無理と判断したのではないでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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