蔦屋重三郎の功罪!写楽はわずか10カ月で消息を絶った…使い潰され、「芸術上の崩壊現象」とまで酷評されるようになったワケとは
写楽は「役者達の呼吸が完全に一致した瞬間」を捉えて絵にしたのです。
さて、歌舞伎界にとって正月に相当するのが、11月の「顔見世興行」でした。歌舞伎役者は劇場と1年契約を結んで活動していましたが、それが11月。
新たな契約、そして顔ぶれで行う興行、それが顔見世興行なのです。役者にとっては、清新な気分で舞台に臨み、芸道に精進していく季節。観客にとっては、そうした役者たちを見ることができるチャンスでしたし、新たなお気に入り役者(今風に言えば推し)を見つける喜びもあったでしょう。
この季節、江戸の話題は歌舞伎一色だったとも言われています。版元からすると、役者絵を刊行するのに、これほど適した時期はないでしょう。
蔦屋重三郎がそのチャンスを逃すはずがありません。写楽は第1期(5月)には二十数種、第2期(7月)には三十数種の作品を蔦屋から刊行していました。一挙に20や30種の浮世絵作品を刊行することは、普通ではありませんでした。そうであるのに、蔦屋重三郎は第3期にあたって、六十数種もの写楽の作品刊行を行ったのです。
その内容は、11月から閏11月に行われた芝居に関する役者絵。寛政6年10月に亡くなった市川門之助(2代目)の追善絵。相撲に関する絵(相撲絵)というものでした。
「芸術上の崩壊現象」と酷評される第3期
それまで写楽は、役者を総花的に描いてきました。上位の役者から下位の役者まである意味、網羅的に描いてきたのです。
それがこの第3期になると、人気役者を中心に描くという方式に変わっているのでした。第3期の作者絵は「松貞婦女楠」を描いたもの。「閏訥子名和歌誉」を描いたもの。「花都廓縄張」を描いたもの。「男山御江戸磐石」を描いた作品でした。
それまで(第1期・第2期)絶賛されてきた写楽作品ですが、第3期になると「前期とは全く異なった人が描いたような、魂の抜けた形骸だけの作品が並んでいる」(松木寛『蔦屋重三郎』)と酷評されるようになります。
「写楽の創作意欲が急速に冷却していくのを目の当たりにする」「芸術上の崩壊現象」とも表現されています(「二世山下金作の貞任妻岩手」などのように、なかには秀作もあると弁護はされてはいますが)。

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