もはや"主食"とはいえないのになぜ固執?「令和のコメ騒動」がこれほどまでに長期化している3つの理由

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そうした中で、かつて300万ヘクタールで栽培されていた水田は、今では半分に減っている。多くの日本人にとって水田との関わりが薄れているのは確実だ。

しかし、都市住民にとっても、世代をさかのぼれば水田と何らかの関わりがある人は少なくないはずだ。夏休みに滞在した祖父母の家、学校行事で体験した田植えや稲刈り。車で道路を走っているとき、列車の車窓から外を眺めたときに、いつまでも続く水田の風景。カエルの鳴き声。あるいは都会のお祭りや神社で目にするしめ縄も、稲わらを産み出す水田抜きには語れない。

都市の消費者の中には、もっと身近に水田を感じる人たちがいる。縁故米のつながりだ。

田舎から都会に出た子どもや親戚に農家がコメを送る。日本全国のコメ地帯で続く出来秋の恒例行事だ。統計によると、消費者が手に入れるコメの1割以上はこうした縁故米ルートによるものだ。

受け取る側は「安い(あるいはタダ)のコメが手に入ってラッキー」とだけ思うのだろうか。単なるコメ粒として以上に、栽培する水田、そして作り手のことに思いをはせるはずだ。

コメを眺めるとき、人は意識の底で水田を思い浮かべているのではないか。普段、コメは金額や品種、おいしさだけで語られる。それだけの価値しかなければ関心は長続きしない。長期にわたる令和のコメ騒動の報道の過熱ぶりは、消費者が無意識のうちに水田の価値に思いをはせていると考えると納得できる。

ごはん1杯でオタマジャクシ30匹

第3には、その水田の多面的機能の価値だ。以前から意識高い系の人たちにとって、水田が単なるコメの生産装置ではないのは常識だ。洪水防止、水源の涵養、生物多様性、景観などのさまざまな恵みを私たちに幅広くもたらしている。日本学術会議が2001年に公表した試算では、水田など日本の農業が果たす役割は8兆円相当にのぼった。

農薬を多投したり生きものを無視したりして効率化を追い求める近代農法が多面的機能を損なってきたが、一方で地域の資源や環境との調和を大切にした農法も広がる。

水田はカエルや赤トンボ、クモ、蛇やタンポポなど6000種を超す生きものの生息場所になっている。水を張ることで渡り鳥が羽を休め、浸透した水が地下水を蓄える。半導体企業の進出が相次ぐ熊本県では、地下水を確保するために、耕作放棄の水田で稲作を再開したり、冬場も湛水状態を保ったりする対策が進められている。ここでは、コメではなく、水田の機能こそが主役なのだ。

福岡県の百姓で思想家の宇根豊氏が語っている。

「トヨタの自動車工場がどんなに環境に優しいといっても、製造工程で1匹の虫も産み出すことはできない。田んぼは稲作をすることでコメも採れるが、無数の赤トンボやメダカを産み出すことができる」

宇根さんの計算によると、ごはん1杯分のコメを作る過程でミジンコ5000匹、オタマジャクシ30匹が育つ。コメの価値を価格だけで推し量ると、私たちは大切なものを見失うのだ。

後編に続く)

山田 優 農業ジャーナリスト

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やまだ まさる / Masaru Yamada

日本農業新聞を経て、農業ジャーナリスト。

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