「バター不足」がベルリンの壁建設の理由だった 国民不満を封じ込めても守りたかった社会主義のメンツ
まずは1958年の大躍進政策の影響を受けた。農村が製鉄に力を注いだため農業生産は不振となった。加えて人民公社で無料給食を実施した結果、中国国内の食糧事情も逼迫した。そのため東ドイツ向け輸出量確保は難しくなった。
そして1960年の中ソ対立の顕在化で輸入は途絶した。東ドイツ以下、ソ連衛星国はソ連に付き中国と敵対した。反撃として、中国は東ドイツへの油脂輸出を絞った。「ソ連が農業専門家を引き揚げたので必要量が用意できない」との理屈である。ちなみに、壁建設後の1962年には両国の貿易額は以前の20分の1以下にまで縮小する。
結果、マーガリン生産は頓挫した。東ドイツ唯一の希望も潰えたのである。
日本に思わぬ経済的影響も
ベルリンの壁建設はこの直後に始まる。東ドイツは深刻なバター不足を抱え、1953年からはこの弱点をアメリカに突かれた。そして1960年にはマーガリンによる改善の目処も失われた。その翌年に壁の検討が始まり、建設に至るのである。
それからすれば、危機感が壁建設の1つの契機である。バター問題を改善しなければ国民逃散は悪化する。その判断から国境線封鎖の決心に至った。そう考えられる。
実際に、1960年の段階で東ドイツ当局は相当の危機感を抱いている。中国大豆の不足からマーガリンの生産困難は明らかになっていた。
そのため翌年の供給量確保を申し入れている。すでに敵対関係にある中国に政治局員を送り周恩来総理を相手に強硬態度で談判を進め、当然だが決裂した。なお、中国は輸出先変更で問題を乗り切っている。
同じ時期から、日中貿易は一挙に拡大する。1950年代までの経済交流は限定的である。日本が金輪牌茅台酒や紅星牌宣紙、景徳鎮白磁といった伝統製品を購入する程度だ。それが1960年以降には、本格的貿易であるLT貿易と備忘録貿易が始まる。
その背景には中ソ対立と東ドイツ貿易の停止がある。中国は東ドイツ製の工作機械や化学プラント、カメラとフィルム、化学肥料が入手できなくなった。そのため日本との関係改善と製品輸入を図ったのである。日本からすれば棚からぼた餅のような市場拡大となったのだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら