「バター不足」がベルリンの壁建設の理由だった 国民不満を封じ込めても守りたかった社会主義のメンツ

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よく旧社会主義諸国の中では、東ドイツは経済的に優等生だったとの評価がされる。しかし、東ドイツは本当に優等生だったのだろうか。冷戦時代において東欧圏で最も成功した国家だったのだろうか。

それは疑わしい。政治的にはまったく信用されていない。ソ連は東ドイツに30万人の軍隊を駐留させていた。これは西側との戦争に備えた戦力だが、同時に、東ドイツの軍国主義の復活を阻止する「ビンのフタ」でもあった。また、東ドイツは武器の開発や生産も相当に制約されていた。

経済優等生との評価も過大評価である。光学や機械工業、化学工業は盛んであったものの、国民生活は窮乏状態にあった。

その象徴がバター不足である。欧州では重要な地位を占める食品であり、カロリー源としての価値も有していた。東ドイツはこのバターを十分に提供できなかった。

自力で食糧暴動を鎮圧できなかった東ドイツ

実際に1953年6月13日に、東ドイツ全土で食糧暴動が発生する。ピークとなった6月17日の日付から「6月17日の蜂起」として知られる事件であり、政治的不満を含んだ騒乱だったが、当時は食糧性の暴動として扱われていた。これは当局にとっては深刻な事件となった。

戒厳令を敷いても争乱は収まらず、その後1週間ほど続いた。しかも、そのうえで東ベルリンではソ連軍の力を借りた。これは東ドイツ政府の統治能力が疑われる事態である。

以降もバターは十分に供給できていない。東ドイツの農業は生産性が低い。そのうえ、パンの供給状況も厳しいため穀物生産を優先しなければならなかった。

しかも、それを公式発表で認めている。暴動から6年後の1959年にはウルブレヒト国家評議会議長(国家元首)は、社会主義統一党の機関紙で「需要の半分の供給も難しい」と釈明している。

農業改革は不可能だったのだろう。東ドイツは社会主義の優等生を演じなければならないからである。実際に農業政策をみても、集団化一辺倒であり自作農の残置も許していない。1970年代のハンガリーのような自由競争と利潤の導入による生産刺激は望めない立場であった。

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