「ラヴィット!」への"モラハラ批判"が危ういワケ 「水ダウ」「ドッキリGP」も炎上…番組は不適切だったのか
ただその一方で「批判は世間の総意ではなく、回避できないものとは言い切れない」のも事実。実際、「ラヴィット!」や「水曜日のダウンタウン」を見て「不快」「不適切」などと感じた人だけではなく「面白かった」「笑った」という声も少なくありませんでした。
3番組の中で最も批判が多かった「水曜日のダウンタウン」の水攻めですら、単純に白とも黒とも言いづらいグレーなニュアンスが感じられます。
「テレビで許容される表現の幅」に対する個人の見解に差があり、批判だけを採り上げて排除すると、もう一方の意向を無視することになりかねません。
特に排除ありきの批判がまかり通る世の中では、自分が「不快」「不適切」と思う番組を排除できる一方で、自分が「面白い」「笑った」という番組も排除されてしまう危険性があるのです。
さらに排除ありきの批判がまかり通るムードはテレビ番組にとどまらず、ジワジワと他のエンタメにも広がっていくかもしれません。
もともとテレビ番組は見なければいけないものでも、見ることを避けられないものでもない、あまたあるエンターテインメントの1つ。生命にかかわる衣食住に付帯したものではなく、民放の番組には対価も払っていないなど、排除ありきで接する必然性は感じられません。
「議論停止型」ではなく「対話型」に
もちろん制作サイドが改善策を考えていくことは大切ですが、排除ありきの批判が増えるほど、テレビに限らずエンタメ全体が縮小傾向に向かう危険性があります。
個人の嗜好が細分化される中、より多くの人々がエンタメを楽しむために必要なのは、コンテンツとしての多様性を保っていくこと。
そのためには1人ひとりが排除ありきで批判するのではなく、「このように改善していけばいいのでは」「これくらいは受け入れ合う社会でありたい」などの建設的な姿勢が必要でしょう。
Xや記事のコメント欄を見ていると、「批判を書いておしまい」という“議論停止型”の書き込みが目立ちますが、多様性を保っていくために大事なのは、今後にどうつなげていくのか。
「もうやるべきではない」という排除ありきで議論停止させるのではなく、落としどころを探ろうとするようなコメントがもっと増えていいのではないでしょうか。
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