嫌われ養鶏所→人気観光地に「たまご街道」の軌跡 地域住民と共生するためにやってきたこと

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

そこで、この土地に養鶏場を残し、続けていくために事業者が連携して情報を発信し、理解を得る努力をわかりやすく形にした旗印がたまご街道である。

「10年ほど前、存続のためにみんなで集まり、共同の旗を揚げようと1軒ずつ回って声をかけ、麻溝畜産会を結成しました。全養鶏場でたまご街道というのぼりを立てることにしました」と当時を振り返るのはコトブキ園の角田隆洋さん。

コトブキ園は海軍将校だった角田さんの祖父が創業した。当初は横浜に養鶏場があり、祖父は東神奈川にあった闇市にリヤカーを押して卵を売りに行っていたそうだ。

「戦争から戻って来た時には家は焼失し、何もなくなっていました。そんな中、体調を壊した祖父は親戚からもらった1羽の鶏が生む卵を食べて健康を回復。食料不足の当時、卵は貴重なたんぱく源でしたから、祖父は卵で日本を再興しようと養鶏場を始めました。そんな話を聞いて育った私としては1軒では残れない養鶏場を7軒まとまることでなんとか存続させたいと考えています」

「一定の目標達成→終わり」ではない

活動はたまご街道というのぼりをそれぞれの養鶏場が立てるというだけだが、効果は大きく、事業者がまとまったことで認知度は大きくアップした。最近では近隣の人はもちろん、市外の人の来訪も増え、「やめないでね」と言われることも。

行政からの支援も受けられるようになり、グルメ、旅行系のメディアなどにも取り上げられるようになった。一部の養鶏場からはせっかくまとまった強みを生かして卵の食べ比べのような、広く関心を持たれる事業ができないかという声もある。

一定の目的は達したわけだが、それで終わりではない。新しい住民は以前よりも地域を理解したうえで入ってくる人が増え、クレームは減少傾向にあるそうだが全体でみるとゼロになったわけではない。臭い、ハエなどの問題もなくなることはない。

そうした不安要因がある限り、養鶏場存続のためにたまご街道ののぼりは掲げ続けなくてはいけないのである。

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事