4月1日に新しい元号が発表され、5月1日から新元号、令和が始まった。日本から遠く離れた英国で5月を迎えた私は、衛星版の新聞やネットを通じて新元号開始前後の様子を見た。「平成最後の〇〇」「令和最初の〇〇」といった表現が多用され、平成という時代が終わり、令和という新しい時代が幕を開けることを印象づける報道が目についた。日本から離れ、普段元号に接しない私には、熱狂する日本の報道ぶりは違和感を覚えるものでさえあった。
グレゴリオ暦(西暦)は、キリスト教に由来するとはいえ、今では世界中で使われ、象徴的・宗教的意味が希薄な、無機的な数字の羅列で表現される時間の区切り方である。もちろん、その機械的な数字に私たちは意味を与える。日本人にとって、1945や2011という数字は特別な意味を持つ。だが、それらが意味づけられるのは、その年に起こった重大な出来事に、私たちが画期としての時代の切れ目を感じるからだ。そのような複数の重大な出来事と出来事との間の時間に、私たちは名称を与える。「戦後」「高度成長期」「バブル」「震災後」のように。
他方、元号という日本だけで通用する時間の区切りには、人為的に作られた始まりと終わりがある。「昭和」、「平成」という時代の感じ方は、その時代に起こった多様な歴史的事件の集合体を、元号という時間の区切りによって閉じ込めることで成立する。そのようにして、私たちは「時代感覚」を得るのである。
社会学や人類学では、何かを別の何かから区別する際に行われる線引きに関心を持つ。線引きによって、社会やそこでの秩序を生み出すさまざまなカテゴリーが作られると見なすからだ。時間についての線引きも、カテゴリーを生む。とくに、比較的長い時間をどのように線引きするかが、社会にとっての歴史認識や、集合的な記憶をひとまとめにする、時代区分のカテゴリー化となる。
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