最後まで残ったそごう徳島店の閉店理由は、「ストロー現象」で説明されることが多い。1998年に明石海峡大橋が開通し、神戸や大阪へ買い物客を奪われた、というものだ。
だが、そごうの誕生から閉店までの約40年を追うと、それだけでは説明できないことがわかってくる。
そもそも、徳島の買い物の中心は、最初から駅前だったわけではない。
「街」といえば新町地区だった
徳島経済研究所の里正彦氏によると、江戸時代、徳島城からは四国の各地へ向かう街道が延びていた。城の南を流れる新町川は、船で荷物を運ぶ道でもあった。人と物が集まる「新町地区」が、商いの中心になっていく。
明治になって鉄道が通ると、多くの街では城から離れた場所に駅ができた。ところが徳島では、城と新町地区を結ぶ道筋の線上に駅が置かれた。駅を降りて、駅前の通りをそのまま進めば新町地区に着く。里氏は、新町地区のにぎわいは衰えるどころか「鉄道ができることによって、より強化された」とみる。
商業の中心になった新町地区で、1920年代に徳島デパートメントストアーが開業し、1930年代には丸新百貨店と一楽屋百貨店が東新町に並んだ。
一楽屋は1935年に4階建ての建物を新築し、徳島初のエレベーターを設置。食堂や子どもの遊戯場、動物園まで備えていた。丸新にも食堂や屋上の遊び場があり、周辺には映画館や専門店が集まった。
「私は徳島市の隣の北島町出身なんだけど、“街へ行く”といえば駅前じゃなくて新町に行くことでした。それはもう、ものすごくにぎわっていたんですよ」
東新町一丁目商店街振興組合理事長の福田(ふくた)典彦さんは、当時をこう振り返る。前理事長の竹原俊二さんも「肩が触れ合うほどのにぎわいがありました。阿波おどりのときくらい人がいたんだから」と教えてくれた。
百貨店で買い物をし、食堂で食事をしたあとに映画を見る。あるいは商店街を歩きながら何軒もの店をのぞく。目的地は一つの百貨店というより、新町という街そのものだった。


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