ところが、ここから数字は下向きになる。1997年、内町と新町を合わせた中心市街地の小売販売額は1039億円まで減った。
しかし、これだけを聞くと「バブル崩壊後の不況のせいだろう」と思うかもしれない。たしかに、販売額が落ちただけなら徳島市に限った話ではない。
そこで、下のグラフを見てほしい。徳島市全体、徳島県全体の小売販売額のうち、中心市街地(内町と新町)がどれだけを占めていたかを示したものだ。

注目したいのは、1994年から1997年にかけてである。市内でのシェア(青い線)は31.6%から28.6%へ、県内でのシェア(オレンジの線)は14.3%から12.4%へ、どちらも下がっている。明石海峡大橋が開通する前のことだ。
販売額だけでなくシェアも低下している。つまり、中心市街地は徳島市・県全体の小売市場のなかでも相対的に地位を下げていたことになる。
徳島は橋を「好機」と見ていた
そもそも徳島は、橋を悲観して待っていたわけではない。1992年、当時の徳島県知事・三木申三氏は業界誌でのインタビューで、本州四国連絡橋によって四国が本州と高速道路網でつながることを、県発展の好機として語っている(『政財界ジャーナル』1992年8月号)。
県は「3000日の徳島戦略」を掲げ、道路網の整備や産業の活性化を進めていた。橋を通じて、本州の活力を徳島へ取り込もうとしていたのである。
橋ができれば、徳島から神戸や大阪へ出やすくなる。逆に、本州から徳島へ来てもらうこともできる。当時は、その両方を期待していた。


※ログイン後、コメント入力が可能です。